このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

<岬と灯台写真館>

三崎と羽後三埼灯台(山形県)

2004年8月29日昼に三崎(山形県遊佐町)で撮った写真です。


 2泊3日で、南東北の旅に出かけ、初日に太平洋岸の 鵜ノ尾埼灯台花淵灯台 と写真を撮り、一気に日本海側に出て湯田川温泉泊まりました。2日目は、鶴岡市内を見学後、国道345号線へ出て道順を修正し、秋田県境へと向かっていきました。目指すは、羽後三埼灯台で、国道7号線脇の三崎公園駐車場に車を置いてからは、海岸沿いの遊歩道を上っていったのです。天気は良く、日本海がすばらしくって、沖には飛島がくっきり見えます。そんな高台に灯台が立っていました。ほんとうにきれいなので、ここでも何枚も写真を撮ったのです。その脇に、思いがけず戊辰戦争戦没者の墓碑があったのが、印象に残りました。ここで、激戦があったのかと...。

☆羽後三埼灯台地図
羽後三埼灯台 (2004年8月29日撮影)
羽後三埼灯台の概要
番号 1383 [F7077]
位置 北緯 39度07分04秒 
東経 139度52分15秒
塗色 白色
構造 塔形 コンクリート造 
灯質 群閃白光 毎7秒に2閃光
光度 5千6百カンデラ(実効光度)
光達距離 12.5海里(約23km) 
灯塔高 10.5m(地上〜塔頂)
標高 68m(平均海面〜灯火)
初点灯 1960年(昭和35)2月1日
所在地山形県遊佐町

<特徴>
 羽後三埼灯台は、山形県遊佐町にある三崎公園大師崎の高台に立つ白亜塔形の 小型灯台 です。周辺は、鳥海国定公園の一部となっていて、日本海を望む風光明媚の地です。天候が良ければ、飛島も見えます。

<歴史>
 この灯台は、1960年(昭和35)2月1日に設置・ 初点灯 しました。その後、1984年(昭和59)10月30日に現状変更されています。

<現況>
 現在の 灯塔高 (地上から塔頂まで)は10.5m、 標高 (平均海面〜灯火)は68mで、 光度 は、5千6百カンデラ(実効光度)、 光達距離 は12.5海里(約23km) です。内部は、一般公開されていませんので、通常は外部のみの見学となります。

羽後三埼灯台のプレート羽後三埼灯台の塔頂部

☆羽後三埼灯台への道

羽後三埼灯台への道

 羽後三埼灯台は、鳥海山が日本海に落ち込むところに位置し、噴火の際の溶岩によって形成され、それが浸食のため切り立った崖となっています。従って、、古来から通行の難所で、かつて有耶無耶の関が置かれていたのもこの辺だそうです。そんな崖沿いの三崎公園遊歩道を上っていったところに灯台があるのです。


☆三崎公園

三崎公園から日本海を望む

 三崎公園は、秋田・山形県境にまたがる三崎山(標高58m)を中心とした一帯にあります。ここは、3つの崎(観音崎、 大師崎、不動崎)が日本海に突き出ているため、この名がついたとのことです。周辺はタブの木に覆われ、山形県の天然記念物になっています。


☆大師崎

大師崎からの日本海の眺望
大師崎のカンゾウの花

 灯台があるのは、三崎公園でも中ほどの大師崎と呼ばれる高台で、日本海と飛島の眺望がすばらしいのです。ちょうど、カンゾウの黄色い花が咲いていました。ここは、夕陽の撮影には絶好の場所とのことです。


☆大師堂と戊辰戦争供養塔

大師堂
戊辰戦争供養塔戊辰戦争供養塔由来

 三崎山周辺は、1868年(慶応4)7月に、戊辰戦争の戦場となったところで、東軍と西軍が戦いました。昔は地面を掘ると人骨が出てきたそうです。羽後三埼灯台近くに大師堂と戊辰戦争供養塔があって、菩提が弔われていましたが、歴史の一こまを感じさせられるところです。


☆奥の細道

奥の細道

 三崎公園の中に旧道が残され、奥の細道の標柱が立っていました。この道は、1689年(元禄2)夏に俳聖松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で弟子の河合曾良と通った道なのです。その時の様子が、『曾良随行日記』には、「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。(一リ)女鹿、是ヨリ難所。馬足不通。 (番所手形納。)大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ  番所也。入ニハ不入手形。鹽越迄三リ。半途ニ關ト云村有。(是ヨリ六郷庄之助殿領。)ウヤムヤノ關成ト云。此間、雨強ク甚濡。」と記されていて、強雨の中苦労して越えていったことがうかがえます。


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