このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
文化庁選定保存技術公開事業である。今回、群馬県前橋市のヤマダグリーンドーム室内と、前橋公園で行なわれた。併せて2015年NHK大河ドラマに登場した臨江閣が現在回収中で素屋根に覆われており、予約限定で改修工事の見学会に潜入した。 詳細は次のサイトをご覧ください。
参加団体は31であるが、そのいくつかを紹介する。 <浮世絵木版画彫摺技術保存協会>
<日本うるし掻き技術保存会>
<日光社寺文化財保存会>
<日本伝統瓦技術保存会>
<文化財庭園保存技術者協議会>
<全国伝統建具技術保存会>
<文化財畳保存会>
<歌舞伎衣装製作修理技術保存会>
<宮古苧麻績み保存会>
まだまだ紹介仕切れないので、詳細は冒頭のリンクページをご覧いただきたい。 以上は全国を対象とした文化庁のフェアであるが、次は同時開催の群馬県前橋市のフェアを紹介する。 <臨江閣改修工事見学会>
見学者は引率されて仮設扉から入館。狭い仮設足場を幾つも渡り潜入する。建築様式は木造二階建て、入母屋造り、桟瓦葺き、屋根は棟飾りとして鯱を載せ、破風は狐格子としてそこに懸魚を下げ、軒下には舟肘木を施した外観を呈している。
二階の仮設広間で解説を聞く。パイプ足場が林立している。あちこちに頭をぶつけるのでヘルメットと軍手は必須である。保険も掛けてくれている。破風には足場で見えにくいが、狐格子と懸魚が取り付けられている。
今回のフェアは非常に勉強になった。老若男女を問わず見学者が多く、文化財の保存の為に文化庁がこれほどまでに技の保存・伝承に力を入れていることが、改めて認識できた。 利根導水路は埼玉県の行田市にある。それを童心にかえって社会科見学に行った。利根川の源流が僕の住んでいる群馬県なだけに、下流域に対しても関心がある。日照り続きで取水制限があれば、上流域の降水を願ったりする。今年の5月から8月にかけては利根川上流域のダムの貯水率が激減し、一方、平野部では洪水に見舞われたりした。自然災害に怒ってみてもしょうがないが「平野部に降らないで、八木沢に降れ」などと八つ当たりする人もいた。八木沢とは水資源機構を事業主体とする利根川本川最上流部に位置するダムのことである。遡上すれば利根川水源碑(1,834m)に辿りつく。 農業用水として取水と放水を繰り返し、下水処理水の放水も繰り返される。それらの水は正常に放流する責任がある。2012年5月に利根川支流の烏川でホルムアルデヒトの流失事件があった。原因特定できないまま収束したが、一時、千葉県で断水騒ぎになった。そんなわけで、行田市大字須加字船川の利根導水総合事業所利根導水路に直行した。 思い出すことがある。それは昭和39年の東京オリンピックが挙行される以前のときである。池田内閣のとき、1962年(昭和37年)7月の改造で、建設大臣に就任した河野一郎のことである。衆議院議員の河野太郎はその孫に当たる。一郎は東京オリンピックに向けた道路や施設の整備に辣腕をふるった。その一つが利根導水路事業である。当時は高度経済成長のさなかであり、東京都をはじめとする首都圏はインフラ整備に力点が置かれた。 水は交通網とともに、最重要課題と位置づけられた。利根川水系の総合的な水資源開発計画の一環として昭和38年に利根導水路事業が着手された。
詳細は次のサイトをご覧ください。 先ずは利根導水総合事業所の受付に挨拶して見学の申請手続きをする。資料の説明を受けている所にタイミングよく、近傍の小学校の児童を引率して女性の先生が現れた。すかさず事務所の女性職員と、先生の双方に同行の許可を貰った。児童の最後尾につき邪魔をしないように心掛けた。20人位の集団ではあるが、先生の声は張りがあって僕等にもよく聞こえた。広くて長いコースを資料も見ずに歩くことができる。
先ずは事務所の屋上に上がる。川の上に四角の箱のように沢山見えるのが利根大堰で、12門のゲートが並んでいる。川幅約700mで左側が上流、ゲートを通って右側が下流。県道20号の武蔵大橋も併設されている。
身体を反転させて南側の利根導水下流側を見る。水面の広がりは沈砂池で、流れを緩やかにして砂を取り除く。沈砂池の向こう側に大分水工ゲートが見える。そこから邑楽用水路・埼玉用水路・武蔵用水路・見沼代用水路・行田用水路へと分水される。群馬県南部の農業水・埼玉県中西部の農業水・東京と荒川を連結し東京埼玉の水道水・埼玉中南部の農業水として田畑を潤し生活用水となる。
屋上の見学が終わって屋外の見学に移る。見学の児童は4年生。僕は孫が8人いるが、一番下の孫と同じである。どの子も人懐こくて楽しい。絶好の見学日和で良かった。
次は樋管ゲートを間近に見る。堤防向こう側の取水口から堤防の地下を潜ってこちら側に流れてくる。激しく逆巻いてどっちに流れているのか判別がつかない。しかし右側に流れて沈砂池へ流れるのが道理である。先ほどの電光掲示板で学んだばっかりだ。
堤防を越えて河川敷に下りる。利根川の向こう側は群馬県。遥かかなたに赤城山が見える。
目の前に広がるのは取水口。右側の利根川から点検橋の下を潜って左に流れる。ちょうど扇子を広げたように絞られて先ほどの樋管ゲートに導入される。点検橋の先に見える白い塔は水位を測る機械である。 目の前に広がるのは取水口。右側の利根川から点検橋の下を潜って左に流れる。ちょうど扇子を広げたように絞られて先ほどの樋管ゲートに導入される。点検橋の先に見える白い塔は水位を測る機械である。
翻って大堰側を眺める。県道の武蔵大橋が併設されている。大堰は12門のゲートによって、渇水期と洪水期の水位調節をしている。
ここは狭いので、他のクラスと順番で観察する。サケの遡上は秋だと聞いている。
地上に戻って見ると、魚道があった。大堰の幅と見比べると意外に狭いと感じた。魚道は1号から3号まである。
約1時間の見学終了。事務所と引率の先生にお礼を言い、児童達に手を振って分かれた。 群馬県高崎市の南部に「群馬の森」という広大な公園がある。そのなかに群馬県立近代美術館と群馬県立歴史博物館という二つの施設がある。
今回はその群馬県立歴史博物館に焦点を当てる。
その博物館において平成23年8月25日、「関東戦国の大乱」という企画展で思わぬアクシデントが発生した。 原因は夏場の温湿度変化に応じた適正管理ができておらず、吹き出し口の金属部の温度が低下したことによる結露の発生と断定された。 その結果、文化庁から10月17日付で公開承認施設としての指定が取消された。県はこの事態を重く受け止め、事故を起こした企画展示室だけでなく、常設展示室の固定ケース7基も含め、すべての固定ケースから資料を撤去させた。改修が完了するまで、この措置は継続するため、10月1日から当分の間、常設展示室の一般公開が中止された。 改修工事は当初、28年3月を目指していたが難航し、4か月近く遅れて28年7月23日のリニューアルオープンとなった。・・・が、公開するのは常設展に限定され、企画展示室は重要文化財を展示するため、十分な環境調査を実施し、水滴染みの再発がないことを慎重に確認する必要から、全面公開は29年度からとされた。 常設展だけでも群馬県民には待ちに待ったリニューアルオープンであった。セレモニーは10:00から始まった。県知事と館長の主催者側と、来賓の挨拶に続いて、古墳の歴史を研究している女子高生が声高らかに未来へのメッセージを述べ、続いてテープカットが挙行されてセレモニーは終了となった。
セレモニー会場の椅子が撤去されて、学習ホールの大壁に組み込まれた立体模型地図に、県内の自然や観光地などを投影するプロジェクションマッピングに次々と映像がデモされた。そして、いよいよ展示室への入室。
常設展示室へ入ると、いきなり「東国古墳文化展示室」とある。群馬県が古代東国文化の中心として、きらびやかな上毛野(かみつけの=群馬県の古名)古墳文化を極めた意義を最初の展示室に設けた。言ってみれば、リニューアルオープン記念の特別展である。
「上毛野と東国古墳文化」への展示室に導入し、日本地図で上毛野の位置を図示。
群馬県の古墳は総数14,000基も築かれたという。写真は現存する太田市の天神山古墳である。
参照:ちなみに 前橋台地:朝倉・広瀬古墳群GoogleMap もご覧いただきたい。 遺跡発掘による埴輪その他の出土品も数多く展示されている。
平成24年(2012)11月、渋川市金井東裏遺跡で古墳時代を生きた人が発掘された。その人は投じ希少であった甲(よろい)を着た(かみつけの=群馬県の古名)として衝撃的なニュースとして報じられた。古墳人は榛名山の噴火により、噴出物の堆積層が3m近い場所で見つかった。
ここから「原始の展示室」である。旧石器時代から始まり、弥生時代までだ。人々は土器や弓矢を使い、竪穴住居で定住生活を始める。森の恵みで暮らしは豊かになり土偶などの祈りの道具や耳飾も造られた。弥生時代になり、大陸から伝えられた米作りが広まる。金属器や墓をはじめ新しい技術や文化も伝えられて、次第に社会も変り始めた。
そして「古代の展示室」。上毛野(かみつけの)を治めた豪族達はヤマト王権と連合関係を結び、東アジアの進んだ文化や技術を取り入れた。太田市の鶴山古墳からは短甲と冑が発掘された。豪族達の軍事力が垣間見える。
このあと、「中世の展示室」、「近世の展示室」、「近現代の展示室」と続くが取材の掲載は割愛する。 博物館を改修前に観た展示の様子から一変し、最新式の展示方式を駆使して見応えがある。ジオラマやレプリカを多用し、簡潔明瞭なパネルで、読むのに苦痛を感じさせない。要所に視聴できるコーナーもある。見学順路にはガイドポールなどでさりげなく誘導。照明も適切で、実に分かりやすかった。 一巡して学習ホールに戻ると、県指定の重要無形民族文化祭が披露されていた。伊勢崎市の千本木神社に奉納される『千本木龍頭神舞』である。激しい舞いで飛びちぎれるトブサを拾い、玄関先に飾れば無病息災になるという。
この日は暑からず寒からず、風もなく、博物館から屋外に出ると、何かマスゲームのような風景が見えた。近づいてみると、『青空ヨガin群馬の森』と称するグループであった。ヨガインストラクターTAKAKOさん率いる一団が爽快に演じていて見るほうも気持ちいい。
群馬県玉村町の県道40号を南下し、住宅地が切れると岩倉橋。橋のたもとを河川敷に下りていく。+印の場所が白鳥の飛来越冬地の観察場所である。
観察場所は毎年おなじ場所とは限らない。洪水によって流れが変り、州が移動するからである。今年の場所は高崎市新町であるが、4,5年前は岩倉橋の上流側(西側)だった。そこは玉村町になる。
上の写真で、岩倉橋の橋脚が中洲の向うに見える。下の写真で中州に橋桁の陰が写っている。
話はそれるが、平成26年(2014.2.15)に前橋で73cmの記録的大雪に見舞われた。3月になって漸く田園地帯の雪が消えた。麦と稲の二毛作の風景の中に異様なものを見たのである。雪解けの休耕田に白鳥が餌をついばんでいた。思い浮かんだのは、烏川の白鳥が餌を求めて飛んできたのだろうと想像したのである。
岩倉橋は明治9年(1876)に木橋として架橋された。県庁が前橋に設置されるにともない、東京から県庁への最短距離の道として新町・玉村経由の新道が開削されたのである。それまでは鳥川を渡船で横断していたのである。明治11年(1878)、明治天皇行幸の際、新町行在所から岩倉具視を代表格に、大隈重信以下500名が前橋行在所に派遣された。岩倉橋の命名はそれに因んだものである。のちにコンクリート橋に改良されて今日に至っている。 この日、前橋市は朝からカラリと晴れた青空が広がっていた。関東平野を取り囲む連山も手にとるように鮮明な山肌を見せている。出初式の式典は、大手町3丁目の前橋公園の「みどりの散策エリア」で行なわれた。周囲にはグリーンドームや臨紅閣そして水鳥泳ぐ幸の池などがあり、広大な憩いの場になっている。
一通りの挨拶が終わったあと、待ちかねた前橋市鳶工業組合と前橋鳶伝統文化保存会による「鳶木遣り・纏振り・梯子乗り」が披露された。圧巻はハットするような演技を行なう梯子乗りで、5人ほどで演目が披露された。
梯子を立て、鳶で支えて数人が交代で演技開始。妙技が決まるたびに観衆から大きな拍手が送られる。
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