このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


2016年

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取材地域は、主として群馬県の前橋市です。
目次(題名をクリックするとジャンプします)

日本の技体験フェア利根導水路群馬県立歴史博物館烏川の白鳥前橋市消防隊出初式

日本の技体験フェア<28.10.22>

 文化庁選定保存技術公開事業である。今回、群馬県前橋市のヤマダグリーンドーム室内と、前橋公園で行なわれた。併せて2015年NHK大河ドラマに登場した臨江閣が現在回収中で素屋根に覆われており、予約限定で改修工事の見学会に潜入した。

 詳細は次のサイトをご覧ください。



ヤマダグリーンドーム

 参加団体は31であるが、そのいくつかを紹介する。

<浮世絵木版画彫摺技術保存協会>
 江戸時代と同じ図柄を同じ方法で彫摺する、多色木版刷の実演である。「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の図柄を、彫り師はライトの灯りのもとで版木に刻み込んでいく。微細な図柄であるからノミは小さく細い。その版木に、摺り師は塗料を変えてはバレンで摺り込んでいく。


摺り師


彫り師

<日本うるし掻き技術保存会>


うるし掻きの解説

<日光社寺文化財保存会>
 日光東照宮を含む世界遺産に登録されている日光二社一寺を、様々な彩色の技術で建物を甦らせている。


子供達も興味津々

<日本伝統瓦技術保存会>
 震災で被害のあった熊本城など、日本の伝統的な建築物の屋根には本瓦葺が多く使われている。軒の反りや屋根の優美な曲線を、伝統的技術で葺き上げる高度な技術である。


瓦の種類を展示


瓦の型抜き体験

<文化財庭園保存技術者協議会>
 名勝や史跡など伝統的日本庭園を維持管理する技術。石・水・植物などが美しく配される為の道具を手作りする。


竹の手箒を作る体験

<全国伝統建具技術保存会>
 神社や寺院などの建具を製作する技術。組子細工による装飾など繊細な美的表現も必要とされる。


壁掛けの組子体験

<文化財畳保存会>


 文化財建造物には様々な様式の伝統の畳が使用されてきた。装飾的な紋縁を使用した紋合わせと呼ばれる特殊な技法などを保存継承している。


伝統畳の製作実演

<歌舞伎衣装製作修理技術保存会>
 登場する多種多様な役者の衣装の仕立て、着付け、修理をする。長い公演の期間中も着付けのほか衣装のメンテナンスを行い、歌舞伎の舞台を支える。


衣装着付けの体験

<宮古苧麻績み保存会>
 沖縄の宮古諸島特有の技術。宮古上布などの織物の原材料である苧麻糸。苧麻(ちょま)とはイラクサ科の多年草である。苧麻の表皮から繊維をとり、繋いで糸を製作するまでの工程を紹介。苧麻を縦割りし、アワビの貝殻でしごくと繊維が分離される。それを洗って乾燥し、手車に巻取り外して束にする。


苧麻の表皮から繊維抽出


手車に巻取る

 まだまだ紹介仕切れないので、詳細は冒頭のリンクページをご覧いただきたい。

 以上は全国を対象とした文化庁のフェアであるが、次は同時開催の群馬県前橋市のフェアを紹介する。

<臨江閣改修工事見学会>
 臨江閣の建物には、本館・茶室・別館の三つがある。見学対象は別館である。1910年(明治43)の創建以来、初めての大規模改修工事である。9月中旬より、屋根瓦および荒床の復旧、壁の耐震補強工事が始まっている。建物全体を素屋根で覆い屋敷の入口は工事中閉鎖となっている。


庭園木の向うに素屋根

 見学者は引率されて仮設扉から入館。狭い仮設足場を幾つも渡り潜入する。建築様式は木造二階建て、入母屋造り、桟瓦葺き、屋根は棟飾りとして鯱を載せ、破風は狐格子としてそこに懸魚を下げ、軒下には舟肘木を施した外観を呈している。
 一階の荒床には工事用資材が置かれていた。開口部分から床下を覗くと、コンクリート基礎の補強がなされている。足場の階段を上がると、本体屋根の瓦葺きの準備がされていた。


床下のコンクリート補強を覗く


これより瓦葺きが始まる

 二階の仮設広間で解説を聞く。パイプ足場が林立している。あちこちに頭をぶつけるのでヘルメットと軍手は必須である。保険も掛けてくれている。破風には足場で見えにくいが、狐格子と懸魚が取り付けられている。


担当者から説明


破風の様子

 今回のフェアは非常に勉強になった。老若男女を問わず見学者が多く、文化財の保存の為に文化庁がこれほどまでに技の保存・伝承に力を入れていることが、改めて認識できた。

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利根導水路<28.9.9>

 利根導水路は埼玉県の行田市にある。それを童心にかえって社会科見学に行った。利根川の源流が僕の住んでいる群馬県なだけに、下流域に対しても関心がある。日照り続きで取水制限があれば、上流域の降水を願ったりする。今年の5月から8月にかけては利根川上流域のダムの貯水率が激減し、一方、平野部では洪水に見舞われたりした。自然災害に怒ってみてもしょうがないが「平野部に降らないで、八木沢に降れ」などと八つ当たりする人もいた。八木沢とは水資源機構を事業主体とする利根川本川最上流部に位置するダムのことである。遡上すれば利根川水源碑(1,834m)に辿りつく。

 農業用水として取水と放水を繰り返し、下水処理水の放水も繰り返される。それらの水は正常に放流する責任がある。2012年5月に利根川支流の烏川でホルムアルデヒトの流失事件があった。原因特定できないまま収束したが、一時、千葉県で断水騒ぎになった。そんなわけで、行田市大字須加字船川の利根導水総合事業所利根導水路に直行した。

 思い出すことがある。それは昭和39年の東京オリンピックが挙行される以前のときである。池田内閣のとき、1962年(昭和37年)7月の改造で、建設大臣に就任した河野一郎のことである。衆議院議員の河野太郎はその孫に当たる。一郎は東京オリンピックに向けた道路や施設の整備に辣腕をふるった。その一つが利根導水路事業である。当時は高度経済成長のさなかであり、東京都をはじめとする首都圏はインフラ整備に力点が置かれた。

 水は交通網とともに、最重要課題と位置づけられた。利根川水系の総合的な水資源開発計画の一環として昭和38年に利根導水路事業が着手された。
 先ずは荒川緊急取水が最優先である。首都圏の水道用水は荒川水系が頼りであったが、それではとても足りない。それを補うために急遽、利根川から水を引くことにしたのである。二つの川を結ぶ導水路は14.5km、荒川連絡水路と呼ばれ現在の武蔵水路に当たる。急場を凌いだが、その後さらに整備を進め、現在の姿になった。


利根導水総合事業所

 詳細は次のサイトをご覧ください。

 先ずは利根導水総合事業所の受付に挨拶して見学の申請手続きをする。資料の説明を受けている所にタイミングよく、近傍の小学校の児童を引率して女性の先生が現れた。すかさず事務所の女性職員と、先生の双方に同行の許可を貰った。児童の最後尾につき邪魔をしないように心掛けた。20人位の集団ではあるが、先生の声は張りがあって僕等にもよく聞こえた。広くて長いコースを資料も見ずに歩くことができる。


利根大堰を遠望


須加樋管ゲート

 先ずは事務所の屋上に上がる。川の上に四角の箱のように沢山見えるのが利根大堰で、12門のゲートが並んでいる。川幅約700mで左側が上流、ゲートを通って右側が下流。県道20号の武蔵大橋も併設されている。
 白い横長の構造物は2本が対になっており、須加樋管という。須加はここの地名で、樋管とは堤防をつらぬく管のこと。ゲートによって、流れる水量を調整し沈砂池の水位を一定に保つのが役目。


利根大堰と手前は樋管ゲート

 身体を反転させて南側の利根導水下流側を見る。水面の広がりは沈砂池で、流れを緩やかにして砂を取り除く。沈砂池の向こう側に大分水工ゲートが見える。そこから邑楽用水路・埼玉用水路・武蔵用水路・見沼代用水路・行田用水路へと分水される。群馬県南部の農業水・埼玉県中西部の農業水・東京と荒川を連結し東京埼玉の水道水・埼玉中南部の農業水として田畑を潤し生活用水となる。


沈砂池から用水路へ

 屋上の見学が終わって屋外の見学に移る。見学の児童は4年生。僕は孫が8人いるが、一番下の孫と同じである。どの子も人懐こくて楽しい。絶好の見学日和で良かった。
 利根川の堤防に沿った芝生の広場に向かう。そこには電光掲示板があって、丸太のベンチに腰掛けて視聴する。木陰で映像もはっきりと見えて快適だ。ボタンを押すと約10分間解説してくれる。


電光掲示板

 次は樋管ゲートを間近に見る。堤防向こう側の取水口から堤防の地下を潜ってこちら側に流れてくる。激しく逆巻いてどっちに流れているのか判別がつかない。しかし右側に流れて沈砂池へ流れるのが道理である。先ほどの電光掲示板で学んだばっかりだ。


樋管ゲートの見学


樋管ゲート

 堤防を越えて河川敷に下りる。利根川の向こう側は群馬県。遥かかなたに赤城山が見える。


堤防を越えて河川敷に下りる

 目の前に広がるのは取水口。右側の利根川から点検橋の下を潜って左に流れる。ちょうど扇子を広げたように絞られて先ほどの樋管ゲートに導入される。点検橋の先に見える白い塔は水位を測る機械である。

 目の前に広がるのは取水口。右側の利根川から点検橋の下を潜って左に流れる。ちょうど扇子を広げたように絞られて先ほどの樋管ゲートに導入される。点検橋の先に見える白い塔は水位を測る機械である。


取水口

 翻って大堰側を眺める。県道の武蔵大橋が併設されている。大堰は12門のゲートによって、渇水期と洪水期の水位調節をしている。
 最初の橋脚に近づくと、地下へもぐる階段がある。「大堰自然の観察室」という室札が掲げられている。水族館のようにガラス張りの窓を透して魚道を泳ぐ魚類の姿を見られる。


ゲート群と橋梁


観察室の入口

 ここは狭いので、他のクラスと順番で観察する。サケの遡上は秋だと聞いている。


サケはまだいない!?


これはニゴイ

 地上に戻って見ると、魚道があった。大堰の幅と見比べると意外に狭いと感じた。魚道は1号から3号まである。


魚道


大堰の各ゲート

 約1時間の見学終了。事務所と引率の先生にお礼を言い、児童達に手を振って分かれた。

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群馬県立歴史博物館<28.7.23>

 群馬県高崎市の南部に「群馬の森」という広大な公園がある。そのなかに群馬県立近代美術館と群馬県立歴史博物館という二つの施設がある。


近代美術館            歴史博物館

 今回はその群馬県立歴史博物館に焦点を当てる。


歴史博物館

 その博物館において平成23年8月25日、「関東戦国の大乱」という企画展で思わぬアクシデントが発生した。
 固定ケース内の展示資料4点に水滴染みが発見されたのである。そのうちの1点は重文で新潟県立博物館から借用したもの、2点は國學院大學図書館から借用したもの、1点は当館のものである。
 該当の固定ケースは幅11.5m×高さ3.91m×奥行2.4mで、天井の吹き出し口から湿度のある空気を供給し、床下のダクトから空気を吸引して循環させる空調方式で、温湿度センサーは東壁に設置されていた。(写真は南側の玄関を写す)

 原因は夏場の温湿度変化に応じた適正管理ができておらず、吹き出し口の金属部の温度が低下したことによる結露の発生と断定された。

 その結果、文化庁から10月17日付で公開承認施設としての指定が取消された。県はこの事態を重く受け止め、事故を起こした企画展示室だけでなく、常設展示室の固定ケース7基も含め、すべての固定ケースから資料を撤去させた。改修が完了するまで、この措置は継続するため、10月1日から当分の間、常設展示室の一般公開が中止された。

 改修工事は当初、28年3月を目指していたが難航し、4か月近く遅れて28年7月23日のリニューアルオープンとなった。・・・が、公開するのは常設展に限定され、企画展示室は重要文化財を展示するため、十分な環境調査を実施し、水滴染みの再発がないことを慎重に確認する必要から、全面公開は29年度からとされた。

 常設展だけでも群馬県民には待ちに待ったリニューアルオープンであった。セレモニーは10:00から始まった。県知事と館長の主催者側と、来賓の挨拶に続いて、古墳の歴史を研究している女子高生が声高らかに未来へのメッセージを述べ、続いてテープカットが挙行されてセレモニーは終了となった。
 これらの様子を、式場から溢れた一般入館者は、隣室の視聴覚室でライブ映像を視聴した。


大澤県知事の挨拶


右島館長の挨拶



テープカット

 セレモニー会場の椅子が撤去されて、学習ホールの大壁に組み込まれた立体模型地図に、県内の自然や観光地などを投影するプロジェクションマッピングに次々と映像がデモされた。そして、いよいよ展示室への入室。
 招待者から始まり、展示室入口が地元小学生の学童達で賑わった。一般の入館者は11:00に開始。


地元小学生の学童


プロジェクションマッピング

 常設展示室へ入ると、いきなり「東国古墳文化展示室」とある。群馬県が古代東国文化の中心として、きらびやかな上毛野(かみつけの=群馬県の古名)古墳文化を極めた意義を最初の展示室に設けた。言ってみれば、リニューアルオープン記念の特別展である。


常設展示室入口


東国古墳文化展示

 「上毛野と東国古墳文化」への展示室に導入し、日本地図で上毛野の位置を図示。


導入画面


上毛野位置

 群馬県の古墳は総数14,000基も築かれたという。写真は現存する太田市の天神山古墳である。


天神山古墳

参照:ちなみに 前橋台地:朝倉・広瀬古墳群GoogleMap もご覧いただきたい。

 遺跡発掘による埴輪その他の出土品も数多く展示されている。


出土品1


出土品2



出土品3


出土品4

 平成24年(2012)11月、渋川市金井東裏遺跡で古墳時代を生きた人が発掘された。その人は投じ希少であった甲(よろい)を着た(かみつけの=群馬県の古名)として衝撃的なニュースとして報じられた。古墳人は榛名山の噴火により、噴出物の堆積層が3m近い場所で見つかった。


甲を着た古墳人


発掘場所の説明

 ここから「原始の展示室」である。旧石器時代から始まり、弥生時代までだ。人々は土器や弓矢を使い、竪穴住居で定住生活を始める。森の恵みで暮らしは豊かになり土偶などの祈りの道具や耳飾も造られた。弥生時代になり、大陸から伝えられた米作りが広まる。金属器や墓をはじめ新しい技術や文化も伝えられて、次第に社会も変り始めた。


原始の展示室


集落のジオラマ



土器


古墳の副葬品

 そして「古代の展示室」。上毛野(かみつけの)を治めた豪族達はヤマト王権と連合関係を結び、東アジアの進んだ文化や技術を取り入れた。太田市の鶴山古墳からは短甲と冑が発掘された。豪族達の軍事力が垣間見える。


甕(かめ)の出土品


短甲と冑

 このあと、「中世の展示室」、「近世の展示室」、「近現代の展示室」と続くが取材の掲載は割愛する。

 博物館を改修前に観た展示の様子から一変し、最新式の展示方式を駆使して見応えがある。ジオラマやレプリカを多用し、簡潔明瞭なパネルで、読むのに苦痛を感じさせない。要所に視聴できるコーナーもある。見学順路にはガイドポールなどでさりげなく誘導。照明も適切で、実に分かりやすかった。

 一巡して学習ホールに戻ると、県指定の重要無形民族文化祭が披露されていた。伊勢崎市の千本木神社に奉納される『千本木龍頭神舞』である。激しい舞いで飛びちぎれるトブサを拾い、玄関先に飾れば無病息災になるという。


3人一組で舞う


舞いちぎれるトブサ

千本木龍頭神舞

 この日は暑からず寒からず、風もなく、博物館から屋外に出ると、何かマスゲームのような風景が見えた。近づいてみると、『青空ヨガin群馬の森』と称するグループであった。ヨガインストラクターTAKAKOさん率いる一団が爽快に演じていて見るほうも気持ちいい。


後方から


前方から

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烏川の白鳥<28.2.11>

 群馬県玉村町の県道40号を南下し、住宅地が切れると岩倉橋。橋のたもとを河川敷に下りていく。印の場所が白鳥の飛来越冬地の観察場所である。


の場所が観察場所

 観察場所は毎年おなじ場所とは限らない。洪水によって流れが変り、州が移動するからである。今年の場所は高崎市新町であるが、4,5年前は岩倉橋の上流側(西側)だった。そこは玉村町になる。


烏川-白鳥は上流側を向いている

 上の写真で、岩倉橋の橋脚が中洲の向うに見える。下の写真で中州に橋桁の陰が写っている。
 白鳥は年々数が増えて、この日はざっと200羽を数えた。飛来したのは数年前らしい。


中洲の黒い筋は橋桁の陰

 話はそれるが、平成26年(2014.2.15)に前橋で73cmの記録的大雪に見舞われた。3月になって漸く田園地帯の雪が消えた。麦と稲の二毛作の風景の中に異様なものを見たのである。雪解けの休耕田に白鳥が餌をついばんでいた。思い浮かんだのは、烏川の白鳥が餌を求めて飛んできたのだろうと想像したのである。


2014.3.4撮影(伊勢崎市稲荷町)

 岩倉橋は明治9年(1876)に木橋として架橋された。県庁が前橋に設置されるにともない、東京から県庁への最短距離の道として新町・玉村経由の新道が開削されたのである。それまでは鳥川を渡船で横断していたのである。明治11年(1878)、明治天皇行幸の際、新町行在所から岩倉具視を代表格に、大隈重信以下500名が前橋行在所に派遣された。岩倉橋の命名はそれに因んだものである。のちにコンクリート橋に改良されて今日に至っている。

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前橋市消防隊出初式<28.1.10>

 この日、前橋市は朝からカラリと晴れた青空が広がっていた。関東平野を取り囲む連山も手にとるように鮮明な山肌を見せている。出初式の式典は、大手町3丁目の前橋公園の「みどりの散策エリア」で行なわれた。周囲にはグリーンドームや臨紅閣そして水鳥泳ぐ幸の池などがあり、広大な憩いの場になっている。


出初式の式典会場



マーチングバンド


式典挨拶

 一通りの挨拶が終わったあと、待ちかねた前橋市鳶工業組合と前橋鳶伝統文化保存会による「鳶木遣り・纏振り・梯子乗り」が披露された。圧巻はハットするような演技を行なう梯子乗りで、5人ほどで演目が披露された。


梯子入場


纏と木遣り

 梯子を立て、鳶で支えて数人が交代で演技開始。妙技が決まるたびに観衆から大きな拍手が送られる。


梯子を鳶で支える
後方はグリーンドーム前橋

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