このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
【十周年特別企画】
旅立ちの記録
【序言】 【第一部】発起編 急転直下の決意 苦しい基本方針 受験(受検)すべき学校選び【第一段階】 受験(受検)すべき学校選び【第二段階】 【第二部】悪戦苦闘編 頭の良さ≠学力 月月火水木金金 過去問題(導入編) 【第三部】啓発編 「ゆとり教育」という巨大な虚構 こどもは何度でも間違う 模試と偏差値 短期的成果と長期展望 【第四部】直前編 受験(受検)すべき学校選び【第三段階】 過去問題(実践編) | 【第五部】実戦編 一月受験 過去問題(実践編その2) 二月受験 【第六部】感想編 中学受験(受検)の成果 受験後の各校寸評 合格できた理由 最後は神仏頼み 【第七部】単純考察編 こどもはよく勉強している 偏差値もろもろ 「勝者」は誰か 【インターミッション】 この一年を顧みて | 【第八部】批判的考察編 塾の存在は必然だが 入試問題に見る建前と本音 学校との「契約」関係 学力低下論再び 各学校の教え 【第九部】総括編 事前想定と現実との照合 さらなる切磋琢磨 【補遺】交通編 入試会場までの交通手段 受験者の整頓 【結言】 新たな旅立ち |
●有為な層が受験で抜けるため、同級生から受ける刺激が少なくなる。 ●所謂「ゆとり教育」のためカリキュラムが薄っぺらで、知的刺激も乏しくなる。 ●しかも、先生の質に大きなばらつきがあり、外れを引くと大変なことになる。 |
●小学六年生のこどもが ●試験会場という特殊かつ独特な環境下で ●制限時間内に解答しなければならない |
●一中 | ●四中 | ●六中 |
●九中 | ●卅中 | ●百中 |
●千中 | ●Χ中 | ●Ρ中 |
●教育理念が明確である【学校が示す理念】 ●生徒層に地域的偏在がなく広範囲から通学してくる【データによる客観】 ●2月1日に受験日が設定されている【受験者層の積極的選択性向】 ●実際に直接した生徒に好感を覚える【筆者の主観】 |
●三中 | ●五中 | ●八中 |
●長男の現在の学力からして、Χ中特進クラス(日曜開講)への編入は不可。 ●そもそも受験勉強の立ち上がりが遅すぎ、Χ中受験はかなり厳しい。 ●M塾としてはむしろ、六中受験を勧める。長男にも適合するはず。 ●卅中受検が既定路線である以上、六中受験は対策が似ており、その観点からもお勧め。 ●六中特進クラス(日曜開講)を受講するならば、平日は上位クラスに編入可能。 ●六中特進クラスを受講しないならば、平日は一般クラスへの編入となる。 |
月曜日 | M塾 |
火曜日 | M塾 |
水曜日 | 家庭学習 |
木曜日 | M塾 |
金曜日 | 家庭学習 |
土曜日 | 午前:J塾 午後:M塾 |
日曜日 | 六中特進クラス または模試 |
【問題】 (1)平等院鳳凰堂を建立した人物は誰か? (2)平清盛が日宋貿易のために開いた港の名は? |
【社会】 ●古代から近現代史まで網羅している(しかも近現代に重点が置かれがち) ●難関校ではシャッフル問題が頻出している(親世代でも難しいレベル) ●問題数がかなり多く時間内で完答が難しい学校も珍しくない 【算数】 ●三平方の定理・連立方程式・Permutation&Combination等の概念を包含する出題多し ●ただしその概念がストレートに問われることはない(中学数学以上なので) ●受験生は小学算数を基礎としつつ知らず知らずのうち中学数学に触れることになる 【国語】 ●物語の文量は篦棒なもの (まともに読めば 5分はかかる/10分以上要する学校も珍しくない) ●語彙問題は親世代でも苦戦するレベルの出題がある |
偏差値 | レベル感 | 求められる素養 | 50未満 | 選択肢問題を完答できるレベル | − |
50以上60未満 | 書き出し問題を完答できるレベル | 知識の一般的な正確さ |
60以上65未満 | 難問に取り組みかつ正答できるレベル | 選択肢・書き出し問題を迅速に解答 |
65以上 | 超難問に取り組みかつ正答できるレベル | 膨大かつ正確な知識がある |
和寒さんのお子さんは、一問一問全て考えながら解いてしまっています。これでは時間がかかりすぎます。このように聞かれたらこう答える、あのように問われたらこの解法を用いる、というような条件反射を身につけないと、難関校の合格は困難です。何年も通塾している子は、かようなトレーニングを積んでいるからこそ、素早く解答できるのです。極端な子になると、問題文をほとんど読まずに正答を導ける子もいます。 |
一月 | ●零中 | ●一中 | ●千中 | 二月 | ●九中 | ●Ρ中 | ●卅中 |
●長男の得点源は算数。百点満点換算で70点以上とれれば、他科目が多少悪くとも総合点が合格水準に達する。 ●国語の得点がまったく安定しない。百点満点換算で50点を切り、総合点が不合格水準にとどまること再三。 ●社会では大崩れすることがままあり、百点満点換算で40点を切る惨状が何度かあった。 ただし、科目毎配点と算数の出来次第で、総合点が合格水準に達することもあった。 |
【算数】ここで高得点をとれるよう、最善を尽くすことにした。ただし、千中を除き学校毎の対策までは立てなかった。 【国語】高得点は望めずとも、ここで崩れることがないよう、学校毎の出題傾向にあわせ対策を立てた。 【社会】大崩れする懸念があっても、残り時間を考えれば効果は薄い。大崩れは運次第、と割り切ることに決めた。 【理科】どの学校でも安定した得点をマークしており、自然体で臨むことにした。 |
●本命校に懸ける思いが、親子ともに深かった。 ●塾と頻繁に意志疎通した(筆者対J塾教室長の接点は20回以上にのぼる)。 ●勉強を塾まかせ・本人まかせにせず、親子で取り組んだ。 ●特に過去問題には適切に取り組んだ。 ●一月受験以降、その時点での状況に応じ、柔軟に作戦を見直した。 (詳述していないが、朝令暮改を厭わず、作戦変更を頻繁に行っている) |
★余談になるが、塾選びにも同じようなことがいえる。中学受験するにあたり、どの塾を選ぶかが重要になることは間違いない。近年ではX塾の実績躍進が目覚ましく、最難関校合格者の相当部分がX塾生となっている。これはX塾のカリキュラムが優れていることを示唆すると同時に、「より高学力の生徒層がX塾を信憑している」状況を反映しているにすぎない可能性がある。 |
★余談ついでにもう一点。第一部で紹介した都立白鴎は、中高一貫化第一期生から東大への現役合格生をいきなり 5名も輩出し、「白鴎ショック」と呼ばれるほどのインパクトをもたらした。この実績を以て、来年受検における都立白鴎の偏差値が上昇することはほぼ確実だろう。とはいえ、偏差値上昇は小幅にとどまるというのが筆者の読みである。どれほど甘めに見ても、Ρ中のように 6も急上昇することはないはずだ。 何故そのように判断するのか。あくまでも筆者の直感にすぎないが、年度明けに白鴎の学校公開に参加して、「この校風では偏差値60代の子とその保護者には信憑されまい」と感じたからである。学校の魅力を偏差値だけで測るのはあまりにも危険というもの、実際に足を運んで確かめるべきである。少なくとも、「自分がその学校を信憑しうるか否か」くらいは、すぐわかるはずだ。 |
★余談ついでにさらにもう一点。八中は高偏差値の学校として知られ、男女とも御三家校と併願するようなカテゴリー上位生徒の受験が多い。ところが、辞退者の数が極めて多く、定員に比して相当多数の合格者を出しているにも関わらず、繰上合格者も多いと伝え聞く。その学校が信憑されているかどうかは、このような断面にも顕れている。 |
●自立し且つ自律できる生徒 ●国数理社まんべんなくまたがる幅広い知識がある生徒 (重箱の隅をつつくような偏狭な知識は求めない) ●知識の暗記だけにとどまらず思考力がある生徒 |
「子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している」 「四歳の子どもを交渉相手として対等に遇してくれる大人はまずいません。けれども、お金を使う人間として立ち現れる場合には、その人や年齢や識見や社会的能力などの属人的要素は基本的に誰もカウントしない」 「教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができない」 「しかし、消費主体として学校に登場する子どもたちは、そもそもそのような逆説が学校を成り立たせていることを知りません」 「子どもたちは消費者マインドで学校教育に対峙している」 「彼ら(引用者注:子どもたち)はただ『自分の不快に対して等価である教育サービス』だけを求めているだけなんです。問題は等価交換が適正に行われることであって、彼らにとってはそれが何よりも重要なんです」 「等価交換の原則を学校教育に当てはめることを許したら、もう教育は立ちゆきません。現に立ちゆかなくなりました。もし生徒達が消費主体であると認めてしまったら、教育の場で差し出されるものに何の意味があるのか、どれほどの価値があるのかを決める権利は子どもたちに委ねられることになります」 「学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される、そのようなダイナミックなプロセスのことです」 「しかし、このような学びのプロセスは、『教育サービス』を購入するために『教育投資』を行う消費主体として自らを確立した子どもには理解不能です」 「近年の際だった傾向は、ビジネスの用語で教育が語られることです。……大学というのは教育サービスの『売り手』であり、受験生とその保護者たちは代価を払って教育サービスを購入する『買い手』である、と。……でも、これはすでにこの段階で『教育の自殺』だと私は思います」 「下流志向━━学ばない子どもたち働かない若者達」(内田樹)より |
●親世代の教育能力の低さ ●「傾向と対策」学習の限界 =「必ず正解が存在している問題」中心に学習する弊害 ●努力の否定 |
我が校では、皆様から御子様を預かった暁には、 ●勉強 ●クラブ活動 ●学校行事 これを三本柱として、御子様を立派に育て上げます。 |
中高のカリキュラムを完全に分離してしまうと、弊害が生じます。例えば、化学の高校課程での内容を、高三になってから初めて学習するとどうなるか。すんなり理解できれば問題ないですが、ここで躓いてしまうと、躓いたままの状態で時間切れ卒業、ということになってしまうでしょう。 だから我が校では、高校課程の内容であっても、敢えて中学時点から触れさせるようにしています。勿論、最初はすぐ理解できず、躓く生徒も多い。しかし、中学から学習していると、繰り返し何度でも、しかも躓き方に応じて、学習する機会を提供できます。その過程のなかで、生徒たちは最終的にはしっかり理解して卒業していきます。 それが「先取り教育」の意味なのです。 |
中一時点でまず生徒に求めるのは、「学習習慣」の確立、この一点に尽きます。 強制的に無理矢理勉強させたところで、長期的には必ず挫折してしまいます。自分から勉強する動機づけがないと、長続きしません。その観点からも「学習習慣」の確立は重要です。 家庭での学習時間は、実態としては平均 2時間弱というところですが、こちらとしては最低でも 2時間の家庭学習確保を求めたいです。 |
我が校では、受験における偏差値をより高くしようなどとは考えておりません。確かに我が校の偏差値は高くない(注:40代)ですが、入学試験では一定の基礎学力があるか否かを判定しております。また教育方針はしっかり確立しており、我が校を第一志望とする生徒さんも多く、学校としても自信を持っているところです。もし娘さんを 6年間お預けいただけるならば、立派に育て上げて世にお出しいたします。 |
我が校では、自立し且つ自律できる生徒を求めています。 お子さんが自立・自律できないタイプ、というならば、我が校には不向きです。外形的(強制的)にカリキュラムを与える学校の方がむしろ向いているのではないでしょうか。 |
五中は近頃、入学時の偏差値を上げる、大学への進学実績を伸ばす、というような方針を採っているようだけど、私にとっては、如何なものか、と思われますね。そんな「普通」の学校になったところで、特色がなくなるだけでしょう。 私にとっての五中とは、全国大会に出場できるような強い部活動があって、普通科以外のコースがあって、ものすごく個性ある生徒が集まって、という場所なんだけどなあ。 まあ、私の考え方は父(五中の現理事長)とまったく合わなくて、父とは現在冷戦状態なんですけどね(苦笑)。 |
事前想定 | 現実 |
●有為な層が受験で抜けるため、同級生から受ける刺激が少なくなる。 | 長男の通っていた一般公立小学校の同級生は約 100名。そのうち中学受験(受検)したのは長男含め 8名。結果は、私立中学への進学が 2名(いずれも女子)、都立中高一貫校への進学が 2名(いずれも男子で片方は長男)。残り 4名(全員都立中高一貫校単願)は残念ながら不合格に終わり、地区の一般公立中学校に進学した。 なお、不合格組のうち 1名は鳥中繰上合格候補者のかなり上位にいたのだが、鳥中では合格辞退者が少なかったため、繰り上がらなかった子である。 彼ら彼女らが通うことになった一般公立中学校では、同級生が約70名に減少している。中学受験(受検)で抜けた人数は僅か 4名に過ぎなかったが、クラブ活動が不活発などの理由から、足立区内の有力他校に流出した人数が相当数存在した結果である。 同級生約70名とは、筆者出身の田舎中学よりも少ない。有為な生徒といえば、前述した不合格組ほかほんの数名にとどまる。長男が現在通う卅中同級生の多士済々ぶりと比べると、残念ながら懸河の隔たりがあるといわなければならない。 |
●所謂「ゆとり教育」のためカリキュラムが薄っぺらで、知的刺激も乏しくなる。 | 公開授業を見比べた結果としていえば、もはや比較にもならないのが実態だ。 私立中学・都立中高一貫校では、授業の内容がそもそも高度、教え方が巧く生徒が理解しやすい、小テストを連続して行い(競争心を煽る以上に)生徒に自らの成長を実感させつつ学習を進める、など学校毎に際立った特色が見られる。 一般公立中学校ではかような特色は見られない。レベルが低いという以上に、没個性・無特色であって、魅力に欠ける。根本的にいえば、確固たる教育方針を持っていないのである。基軸となる教育方針(戦略)を持っていない以上、教え方(戦術)が劣るのは必然の結果でしかあるまい。 また、「ゆとり教育」にどっぷり漬かって能力を落としたのは、生徒以上に実は先生の方が深刻なのではないか、とも懸念される。当今の先生を見ていると、指導要領に沿って「しか」教えられないのではないか、主体性がまったくないのではないか、という疑いを持たざるをえない。仮に世の中が大転換して「詰めこみ教育」に復古したとしても、その意味や意義が理解できず、ノウハウもない、という展開になるのが落ちであろう。 このように連想すると、「詰めこみ教育」時代にその意味や意義を理解せず、しっかり教えるノウハウもなく、所謂「落ちこぼれ」を量産し、その結果として「学校の荒れ」を導いた、当時の先生の能力も低かった、と考えなければなるまい。一般公立(小)中学校の先生を信頼できない理由の一端を、この断面にも見出せる。 |
●しかも、先生の質に大きなばらつきがあり、外れを引くと大変なことになる。 | 公開授業や学校説明会などから見比べた結果としていえば、前項以上に比較にならないといえる。 私立中学の先生は、常に評価の目にさらされており、なんらかの特色を持っている人物が多い。有為でない先生は、評価の結果として学校から去っていく宿命である。近年躍進している私立中学では、所謂「使えない」先生を淘汰し、先生をほぼ全員入れ替えた、というところもある。 都立中高一貫校の先生は、所詮公立校の先生かと思える面もある一方、都立高校エース級の先生が揃っていて私立中学と比べても遜色ない。感覚的にいえば、 一般公立中学校の先生 ≪ 都立中高一貫校の先生 ≦ 私立中学の先生 というところである。 以上は一般の先生の比較であり、校長・教頭先生どうしを比較するとさらに差が開く。一般公立中学校の校長・教頭先生が「地元の名士」だったのは昔話で、今ではただの管理職にすぎない。これに対して、都立中高一貫校・私立中学の先生は学校経営に参画する、いわば「経営者」の一角を占めつつある。学校説明会での校長・教頭先生の発言を比べてみると、説得力ある言葉を発することの重みがよく理解できる。一般公立中学校の校長・教頭先生には、この重みがまったくないのである。 校長・教頭先生が、第八部に記した「小皇帝」の如く振る舞うようだと、状況がさらに悪化する(現に長男が卒業した小学校では校長先生の交代で外形的管理型教育が採られた実績がある)。自らの権限を私物化する小役人気質の小人物が校長・教頭先生になると、生徒と保護者にとってはまったく救いがなく、逃げる余地がなくなってしまう。 |
●今の長男には、勉強の質・量が圧倒的に足りない。 ●単に教科書・ノートを読むだけでなく、書き出しが必要かつ重要。 ●勉強は、テスト直前に終わらせるのでなく、テスト一週間前に終わらせる。 かつ、テスト一週間前には、今回テスト範囲の内容を親に説明すること。 (他人に説明することで学習内容の理解を深めさせることを意図) ●テストまでの一週間は復習に充てる 繰り返し学習が重要なので、英語・数学は二回転以上したい。 ●日常の感覚もよく研ぎ澄ませておく。 (授業でのみ触れた内容・実験の再現等に関する注意喚起) ●テレビ・インターネットは20時以降禁止。 (どちらも依存性が強くダラダラと視聴しがちなので) (ただし禁止しては緩和の繰り返しになったのだが……) |
●やれば出来る! ●必ず出来る! ●おまえには出来る! |
学校 | 往路 | 復路 |
零中 | 赤羽駅までマイカーで送る 最寄駅から学校までバス | 学校近傍までマイカーで迎えに行く 帰路レストランにて家族全員で壮行会 |
一中 | 西新井駅までマイカーで送る 最寄駅から学校までバス | 徒歩+鉄道+徒歩 (妻が付き添い) |
千中 | 亀有駅までマイカーで送る 最寄駅から学校まで徒歩 | 徒歩+鉄道+徒歩 (妻が付き添い) |
九中 | 学校直近までマイカーで送る | 学校近傍までマイカーで迎えに行く |
Ρ中 | 九中近傍から池袋駅までマイカーで送る 電車を乗り継いで最寄駅へ (Ρ中は最寄駅から徒歩至近) | 鉄道+日暮里・舎人ライナー+徒歩 (妻が付き添い) |
卅中 | 学校直近までマイカーで送る | 学校直近までマイカーで迎えに行く |
八中初日は 2,800人受験生集まったらしいよ。ホームから改札出るまでに30分かかったらしい。銀行の窓口で聞いた。 八中の最寄駅、エスカレーターの改修工事をしていたらしい。入試で混雑するのを予測できなかったのかね【あきれ顔の絵文字】 |
ジャーナリストの斎藤貴男氏が、ゆとり教育が政策として採用される過程を、世界史的な経済の転換の中からとらえた『機会不平等』(文藝春秋)はすぐれたルポですが、この中に、「ゆとり教育」路線を推進した三浦朱門・教育課程審議会前会長のこんな発言が紹介されています。 「学力低下は予測しうる不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい。やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」(『機会不平等』40ページ) 「中学校でできること」(小河勝) 『学力低下を克服する本━━小学生でできること中学生でできること』(陰山英夫・小河勝共著)より |
ところでつまずきの大きい子どもたちはどのような気持ちで中学校に来たのでしょう。 きっと、不安な気持ちでいっぱいだったに違いありません。しかし、それは中学への入学の時だけの話ではなかったのです。つまずき始めてから彼らはずっと、不安とあせりに追われてきました。 …… 彼らは「自分が悪い」と常に考えています。しかし半年がたち、一年が経過すると、毎時間、毎時間「分からない」という事実そのものが、彼らに「私は馬鹿なのだ」「ボクはアホや」と語り続けます。真っ暗な暗い夜道を、トボトボと一人でさまようような心細い彼らの姿が、ありありと眼に浮かびます。いじらしく、哀れでもあります。 毎日毎日、何年も、自己卑下の経験を繰り返す中で、彼らの心の中には、「私は、何をやってもだめだ」という、虚無感が形成されていったのです。 無気力は、暗さや脱力感などの静的な形だけをとるのではありません。内面のうつろなゆがみを埋めようとし、妙にはしゃいだり、落ち着きがない、目立とうとする、時には、奇声を発する、乱暴になる、陰湿になる、さらにエスカレートすると、憎悪を内包する破壊主義とサディズムの形態にまで至ります。 こうして健全さを欠いた子どもたちが日本中に一挙に噴出していったのでした。 エーリッヒ・フロムは『悪について』の中で次のように述べてます。 「人間は無力感の中でいつまでも耐え続けることはできない。やがて彼は破壊を求め出す」 「未来を切り開く学力」(小河勝) 『学力低下を克服する本━━小学生でできること中学生でできること』(陰山英男・小河勝共著)より |
お母さん、勉強がわかってきた 親が変われば子どもも変わる 親の疲労が歪みを生む 自分の感情で子どもを叱っていないか、一呼吸おいてみる 懲罰的な叱りかたをしない 「家庭でできること 中学生編」(小河勝) の小見出し抜粋 『学力低下を克服する本━━小学生でできること中学生でできること』(陰山英男・小河勝共著)より |
日本では、「生まれの不平等」は、一種の貧困問題として認識されていたが、1950年代で、その議論は終わってしまった。経済成長により、総中流化が進行し、貧困問題が解消されたからである。 しかしながら、豊かになった現在でも、「生まれの不平等」は存在している。上層ノンマニュアルの親を持つ生徒は、おしなべて成績が良い。いわゆる主要科目だけではない。体育や美術や技術科といった実技系科目においてすら、上層ノンマニュアル出身者は成績が上位なのである。面接入試や小論文入試を行なっても、やはり、上層ノンマニュアルの子弟は通りやすいだろう。 そして、上層ノンマニュアルの子は、進学や就職において有利なポジションを占め、階層を継承し、格差は再生産され続けている。 (SSM社会移動度調査 不平等社会日本 佐藤 2000) 第14次中教審は、有力大学入学者が、特定私立一貫校出身者による寡占状態になっていることを指摘し、一校あたりの入学者数の上限を設けることを提案して、マスコミで大きな話題になった。 彼らは、学力格差の原因を、教育費を支出する家庭の経済状況によるものだと考えたのだが、実は違う。学費の高い中高一貫私立校が台頭する以前から、公立校出身の上層ノンマニュアル出身者によって、有力大学は独占されてきたのである。 現在の教育学研究では、教育費ではなく、家庭の文化資本の差が、学力格差の原因だと考えられている。 「教育のトリレンマ」(井上晃宏) より |
●子の学習内容に親がしっかりと興味を持つ ●絶対評価ではなく相対評価をする なお相対比較する相手はあくまでも「以前の子」である (成長を認めることで子は伸びていく) ●一度や二度の失敗・間違いに挫けない (親が諦めた瞬間に子まで諦める) ●「やれば出来る」と信念し「出来るまでやる」と行動する ●勉強【努力】→ →成績向上【成長・上達】→ →喜楽の実感【自尊感情の満足】→ →より一層の勉強 ……この好循環サイクルを確立する ●遠近両方の目標を掲げる |
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