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私の好きなインドネシアインドネシア共和国憲法独立宣言文起草博物館
2008年05月15日更新:訳注を大幅に修正・追記しました。

前田少将邸宅の遺産(日本語訳)

(ソース: The legacy of Maeda's residence / 2000年10月7日付け The Jakarta Post 記事)

バタヴィア(ジャカルタの旧称)にある高級地区の一つWeltevreden~今はJl. Imam Bonjol~に位置している二階建ての建物。それは、現在Museum Perumusan Naskah Proklamasi・独立宣言文起草博物館として、わが国の独立にとって重要な役割を果たしたと知られている。

装飾は少ないが、ドアと窓の多いこの建物のアール・デコ調建築スタイルは、周辺の建物、そのほとんどが同じスタイル、に比べ特に壮観に見えるわけではない。

この建物が最初に建築された時期についての詳細な記録はないが、1920年頃と信じられている。

文献によれば、この建物は当初とあるオランダ法人関係者のための住居として設計された。そして、1931年、この建物はPT Asuransi Jiwasraya Nilmy (Nederlands Levenzekerring Maatschappij)という保険会社の所有となり、敷地面積は4,380平方メートルであった、という記録がある。

数回にわたり、この建物の所有者は変わっていった。この通りがOranje Nassauboulevardと呼ばれていた頃、この建物はイギリス総評議会(原文:British Council General *1)の所有であり、それは日本軍の占領まで続いた。その後、日本人達はこの通りの名前をミヤコドオリ(原文:Myakoodoori street)へ変更した。

この建物が在バタヴィア日本海軍連絡事務所(*7)の代表、前田精少将の公邸であったとき、インドネシア人にとって、この建物は重要なものとなったのだ。

この海軍高官の名前は、ほとんどのインドネシア人にとってお馴染みである。なぜならその名前は学校教科書(*6)や一般刊行物のいずれにおいてもインドネシア史の書籍に頻繁に登場するから。

前田は1942年に日本軍が我が国を占領した直後からこの家に住み始めた。彼はインドネシア民衆の独立闘争に共感する軍人だった。彼は“全ての民族はその独立を獲得すべし”という信条を持っていた。その結果、インドネシア独立宣言文を起草する場所として、彼は公邸を自ら進んで利用させたのだった。

この海軍高官は雑誌Media Joang 45でこう語っている。1944年、日本政府がインドネシア民衆に独立を約束したときは嬉しかったが、その約束がすぐには実現しないと知ったとき、後ろめたく感じ失望した、と。

その時

1945年8月17日午前10時、スカルノ(この後インドネシア初代大統領となる)が独立宣言文を読み上げたそのほんの数時間前、歴史的な瞬間がこの家で発生した。

独立宣言のタイミングをめぐって、スカルノやハッタ(初代副大統領)ら民族主義指導者と青年グループとの間に意見の相違があったことは広く知られている。

青年グループは、1945年8月15日、日本が連合国軍に降伏したこと~日本はそのことを隠そうとした~を知ると、独立宣言を行うよう強く要求した。他方、民族主義指導者たちはその情報を信用せず、日本が独立を許すまで待つことを望んだ。

ついに、青年グループはスカルノとハッタを拉致し、レンガス・デンクロックへ連れ去った。そこは西ジャワの小さな町で、1945年8月16日インドネシアの部隊によって占領されていた。青年グループはこの2人に独立宣言を行うよう強要したのだ。そして、ジャカルタで独立宣言を行うことが合意された。

このとき、前田は、もしこの2人の指導者が無事に帰還するのならばインドネシアの独立宣言を日本側が妨害しないよう調整できる、というメッセージを送った。そして、独立宣言文を起草する場所として前田邸が最も安全であることも意見が一致していた。

しかし、前田は、1947年に蘭印法務長官付きであったAudretsh (*2)へのレポートの中で、独立宣言の打ち合わせのため彼の家を使わせて欲しいと求めてきたのは、午後11時にハッタを伴って彼の家にやって来たスカルノである、と語っている。

会議は深夜に始まり早朝まで続いた。そこには50人ほどが出席していた。その間にも、多数の青年グループ達が会議の結果を待っていた。

前田自身は起草過程に関与せず、会議の場を離れると二階で就寝した。

独立宣言文を起草する作業自体は午前3時頃から始まった。そして、それにはスカルノ、ハッタ、スバルジョ、そして在ジャワ日本海軍政務局長(*3)が参加していた。

数時間後、原稿は完成した。そして、Jl. Pengangsaan Timur No. 56 のスカルノ邸(現在は中央ジャカルタのJl. Proklamasiにある独立宣言モニュメント)でインドネシア民衆に向け読み上げられた。スカルノ邸での独立宣言読み上げは、広い場所で独立宣言を行った場合日本軍との衝突が発生することを考慮した結果であった。

独立宣言文が準備された場所として以外にも、この建物は、1945年11月17日及び1946年10月7日のインドネシア−オランダ間の外交交渉の場となっている。その際、この建物はイギリス軍の本部として使用されていた。1984年、この建物は博物館へ改装された。

この建物のダイニング・ルームは、独立宣言文の起草室と今は呼ばれている。その中には、スカルノ、ハッタ及びスバルジョの肖像と起草過程で使われた椅子とテーブルのレプリカが展示されている。

隣室は、タイピング・ルームと呼ばれ、そこでSajuti Melikが宣言文をタイプした。当時タイプライターがなかったため機械はドイツ軍事務所(*4)から借用したと前田の補佐官前田邸の家政婦(*8)だったサツキ・ミシマは独立宣言文起草史の中で述べている。

もう一つの歴史的な部屋は前田が会議を行う際に使っていた大ホールである。ここは今独立宣言文の署名室と呼ばれている。この部屋で、スカルノはインドネシア人民の代理としてハッタと共に独立宣言へ署名する前に、何度もそれを音読したのだ。

前田はその後1946年4月にグロドック地区(西ジャカルタ)の刑務所へ拘置された。1976年、死の前年、前田はインドネシア国家・国民へのたぐいまれな貢献の栄誉としてナラリヤ勲章(*5)を授与された。

[訳注]

*1:原文の"British Council General"は意味不明。領事館のような公的な機関を指しているとは思いがたいが。。。

[2008年5月15日修正・追加↓

*2:原文の"Audretsh"とは多分人名と思うが、確信なし。

Audretshは、オランダ領東インド最高検事局の調査官。前田少将の部下であった西嶋重忠の取調べも担当しており、そのときの様子が西嶋重忠の回想録に記述されている。

しばらくしてから、調べが開始された。オランダ領東インド最高検事局臨時職員の肩書きをもつA・P・M・オードリッチが取調官で、態度は紳士的だったし、拷問をうけたり、どなられたりすることはなかった。尋問はオランダ語でなされ、オランダ語で答えた。私はインドネシア側に不利なことや、前田にプラスにならないことは、すべて陳述しなかった。どうしても、自白しなければならないところは前田ではなく、私の責任にした。

・“証言 インドネシア独立革命” 西嶋 重忠 著。新人物往来社(1975) p.235

西嶋重忠は海軍武官府の嘱託。インドネシア語・オランダ語に堪能。

↑2008年5月15日修正・追加]

*3:原文は"head of the Office of Consultants for Political Affairs of the Japanese Navy in Java" いったい誰?

[2008年5月15日追加↓

西嶋重忠“証言 インドネシア独立革命”によれば、独立宣言文の起草作業に同席した日本人は、前田少将、吉住留五郎(海軍嘱託)、三好俊吉郎(陸軍司政官)、及び西嶋重忠の4名。
・“証言 インドネシア独立革命” 西嶋 重忠 著。新人物往来社(1975) p.218

↑2008年5月15日修正・追加]

*4:ドイツ海軍の連絡事務所から借り出したと次の記事にある。 Peperangan Hanya Membawa Kesia-siaan (Pikiran Rakyat紙)

*5:かなり高位の勲章らしい。受勲者の一覧がウェブに掲載されていないか探しているが、まだ見つけていない。

*6:インドネシア中学校社会科教科書(2年生用)の一部を和訳しています。前田少将についての記述がありますので、是非ご覧ください。 インドネシア中学校社会科教科書「独立準備の過程」

[2008年5月15日追加↓

*7:日本海軍連絡事務所。原文は"Japanese naval liaison office"。在ジャカルタ海軍武官府のこと。

*8:原文"Maeda's assistant Satzuki Mishima"。訂正です。次の書籍によれば、三島サツキは前田邸の家事をみるために同邸に起居していた婦人とのこと。
・“証言 インドネシア独立革命” 西嶋 重忠 著。新人物往来社(1975) p.221
"assistant"という単語は、一般的に“家政婦/お手伝い”といった意味で使わない(と思う)。これは多分インドネシア語の「pembantu(お手伝いさん、助手)」を「assistant」へ直訳したんじゃないかと推測している。インドネシア人が書いている英文なんで、文章内の単語の用法には十分注意が必要。

↑2008年5月15日追加]
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