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私の好きなインドネシアスマランとその周辺カルティニとマタハリ

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カルティニとマタハリ
(まったく個人的な興味(^^ゞ)

 ちょっと妙な表題ですが、丁度100年ほど前にジャワにいた有名女性二人です^_^;。(当時は無名ですが、その後有名になった二人。)

カルティニ(Kartini)カルティニ(Raden Adjeng Kartini)は、1879年4月21日生まれ。
1903年に結婚し、翌年1904年9月17日に死去。(長女出産後の産褥熱が原因)

 女性解放・インドネシア民族意識萌芽の先駆けとして有名な女性ですが、やはり女性であるため自由に行動することできず。オランダ留学の夢を果たすことなく、一生のほとんどを生地のジェパラ(中部ジャワのスマラン近郊)ですごし、親の決めた結婚相手と結ばれます。(生家は現在 カルティニ博物館 となっています。)

 カルティニが広く世に知られるきっかけとなったのは、彼女が生前にオランダ人のペンフレンドと交わした多数の書簡(オランダ語で書かれていた)が、1911年にオランダで出版されたことでしょう。
 その後、カルティニの書簡集は、さまざま版が出されることになります。

 私はインドネシア語版を持ってますが、まだ読んでません^_^;。
 意地を張らずに^_^;そろそろ日本語版を買おうかとも思ってます。

 さて、もう一人のマタハリ(Mata Hari)。
 こっちは、カルティニとはおよそ縁のなさそうな世界にいそうな女性です^_^;。いまだに「ジャワ生まれの」女スパイなどと紹介されることがありますが、1876年8月7日オランダ生まれの、れっきとしたオランダ人です。(本名:マルガレータ・ヘルトロイダ・ツェレ) 

 海軍軍人と結婚したため、任地のオランダ領東インド(今のインドネシア)へ1897年 夫と共にに赴任します。

 1902年3月にアムステルダムへ戻りますが、ジャワ滞在中に、現地の服装や踊りに造詣を深め、それが帰国後 ダンサー「マタハリ」となってデビューする際に役立つことになります。
 帰国後離婚。1905年にダンサーとしてデビュー。同時にパリの社交界にもデビューします。その後、第一次世界大戦中にスパイの容疑をかけられ1917年10月15日パリで銃殺刑に処せられます。マハタリはいまだに人気がある模様で、Googleのimage searchで「matahari」を検索すると結構写真がヒットします(^^ゞ。

Googleのimage searchで"matahari"を検索する

 さて、マタハリは、ジャワ滞在中スマラン近郊のアンバラワに住んでいたことがあるそうです。今から100年ほど前のジャワで、この二人が出会ったことはあるんでしょうか。

 カルティニは、オランダ語を解する聡明な“現地人”として、スマランやバタビア(現在のジャカルタ)で開かれたパーティやイベントに出席したことがあったそうです。他方、マタハリも夫が海軍の大尉(のちに少佐)でしたから、現地のオランダ人(&白人)社交界には顔を出していたはず。

 ジャカルタやスマランで古い建物を見かけると、ふとそんなことを思い浮かべたりします。


※参考:
  • 「カルティニの風景」土屋 健治 著 めこん
    ¥1,900(税別) ISBN4-87601-519-8
  • 「マタ・ハリ」ラッセル・ウォーレン・ハウ 著 ハヤカワ文庫
    ¥816(税別) ISBN4-15-050189-0

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