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第二次大戦終結後の1945年10月14日から18日にかけて、インドネシア スマラン(Semarang)で日本軍とインドネシア民衆の間に衝突があり、数千人が犠牲となる事件がありました。日本側では「スマラン事件」と呼ばれ、インドネシア側では「Pertempuran Lima Hari」(“5日間戦争”の意味)と呼ばれています。
毎年、この時期にはスマランで慰霊の為の式典が行われており、日本からの参列者もいると聞いています。
私はスマランを何度か訪れていますが、残念ながらこの時期に行ったことはありません。
手元の書籍「30 YEARS OF INDONESIA'S INDEPENDENCE」(STATE SECRETARIAT)」(英文)に掲載されている事件の概要をご紹介します。
この事件は、1945年10月14日に始まった。日本海軍の軍人約400人が反乱を起こしたのだ。彼らは、以前ソロモン諸島で戦っていたが、スマランのチピリン(Cepiring:スマランの30km西方)砂糖工場を軍需工場へ改造する作業に従事するためスマランへ移って来きていたのだった。彼らは、彼らの保護・監視を行っていたインドネシア人の警官たちを襲撃した。
逃げ出したこれら日本軍人たちは、ジャティガレ(Jatigaleh)の城戸部隊(城戸大佐に率いられた大隊)に合流した。彼らは、拘留された日本人を探し、助け出すという口実を使い、各地を移動・抵抗しようとした。
この緊張した情勢は、チャンディ(Candi:*1)の飲用貯水池に毒が入れられたという噂が広まると、更にその緊張を高めた。貯水池の水を汚染したと疑われていた日本人達が、飲料水の汚染を防ぐと言う口実で、そこを警備していたインドネシア人警官8人の武装を解除したため、状況を更に悪化させたのだ。
スマラン中央人民病院研究所のカルジャディ医師が、この5日間戦争の最初の犠牲者となった。
1945年10月15日の夜明けに戦闘が勃発した。城戸部隊約2,000人が、スマランに偶然駐留していた他の良く装備された大隊の助力を得て、TKR(*2)及び青年団と相対したのだった。現在“Tugu Muda”(*3)が建てられている五叉路で、激しい戦闘が行われ多くの犠牲者が出た。戦いは5日間続き、双方の指導者たちの交渉によって終結した。そして、1945年10月20日、連合国軍のイギリス軍がスマランに上陸し、日本軍の拘留・武装解除を行うと、すぐに町は平静さを取り戻した。この戦いでインドネシア人2,000人と日本人100人が犠牲になったと推定される。
「30 YEARS OF INDONESIA'S INDEPENDENCE」(STATE SECRETARIAT)」は、1975年(当時はスハルト体制下)に発行された対外的なインドネシア共和国正史と言えるでしょう。しかし既に30年前の書籍。スマラン事件についての、インドネシア政府の見解は変わっているかもしれません。でも、最近の歴史教科書(高校生向け:*4)でも、ほぼ同じ内容の記述なんで見直しは行われていない可能性高い。
Pertempuran Lima Hari
Perjuangan mempertahankan kemerdekaan Indonesia juga terjadi di kota Semarang. Pada waktu itu terdapat 400 orang veteran angkatan laut Jepang yang akan diperkerjakan untuk mengubah pabrik gula Cepiring di Kendal menjadi pabrik senjata.
Ketika para veteran tersebut dipindahkan ke Semarang, mereka melakukan penyerangan terhadap polisi Indonesia yang mengawalnya. Keadaan bertambah gawat ketika para veteran itu menggabungkan diri dengan pasukan Kido Butai yang bermarkas di Jatingaleh, pinggiran kota Semarang. Akibatnya, tentara Jepang mengadakan serangan balasan terhadap kota Semarang pada tanggal 15 Oktober 1945.
Gerak maju pasukan Jepang dihadang para pemuda di daerah Simpang Lima sehingga terjadi pertempuran dahsyat di sana. Pasukan Jepang dibawah pimpinan Mayor Kido bertempur secara membabi buta untuk mengimbangi kegigihan para pemuda Semarang. Pertempuran tersebut berlangsung antara 15-20 Oktober 1945 dan baru berhenti setelah diadakan perundingan antara pimpinan TKR dan pimpinan pasukan Jepang di Jawa Tengah.
Selama lima hari diperkirakan 2.000 orang rakyat Indonesia tewas sedangkan di pihak Jepang diperkirakan 100 orang tewas. Dalam pertempuran itu dr. Karyadi Kepala Laboratorium Pusat Rumah Sakit Rakyat (Purusara) turut menjadi korban. Ia tewas ditembak karena menggagalkan usaha tentara Jepang meracuni sumber air minum kota Semarang. Ribuan penduduk kota Semarang terselamatkan jiwanya berkat keberanian dr. Karyadi.
「Sejaraha NASIONAL DAN UMUM (Kelas 3)」Bumi Aksara 社、p.41-42から引用
現在、同教科書の日本軍占領時代を記述した部分を和訳しています。興味のある方は、次のページをご覧ください。 インドネシア歴史教科書「日本軍占領時代」
▼▼▼ 2008年06月02日追加 ▼▼▼
スマランの地元紙Suara Merdekaに“Pertempuran Lima Hari”の記事がありましたので、簡単に紹介しておきます。
Peringatan Pertempuran Lima Hari
Dor! Dor!, Mengenang Heroisme
http://www.suaramerdeka.com/harian/0710/31/nas27.htm
Suara Merdeka紙(2007年10月31日付け)
式典の様子を撮影した写真が記事に貼り付けられていますけど、日章旗の日の丸のプロポーションが変です(:_;)。白布に赤い丸を描けば良いという物ではありません。。。。
SURAT PEMBACA
Korban Pertempuran Lima Hari Semarang
http://www.suaramerdeka.com/harian/0404/24/opi05.htm
Suara Merdeka紙(2004年04月24日付け)
読者からの投書。
事件後にTugu Mudaを建立した場所で、当時日本軍(憲兵隊)による処刑があったと投書が訴えています。竹を使って戒められたインドネシア人たちが次々と日本刀で首を刎ねられていく様子が書かれています。その処刑を免れ、生き残ったインドネシア人の証言を投稿者が寄稿したもの。
初めて聞く話ですけど、本当なんでしょうか?
▲▲▲ 2008年06月02日追加 ▲▲▲
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