このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

四国88箇所歩き遍路(第二回ーその八)

第八日目(五月十五日)

(七十番本山寺から七十五番善通寺まで 徒歩距離 18.8km 善通寺宿坊に一泊)

 

若松屋本館を七時に出発し、直ぐ財田川の堤防を上流方向に向かって歩く。今朝は気温が低めで薄曇りの上、人通りが少なく気持ち良い歩きである。

2km過ぎた辺りより川向こうに七十番本山寺五重塔も見えて来た。JR予讃線を踏み切っ財田川を渡り、本山寺の山門に着く。

御本尊馬頭観音菩薩という珍しい寺であるが広い境内には本堂、大師堂、五重塔が立ち並ぶ大きな寺である。

まだ、朝が早いせいか参拝客はまばらである。

参拝作法に従って山門で合掌一礼し、水屋で手を清め、口をすすぎ、本堂の前に移り線香を上げロウソクを灯し、納め札とお賽銭を入れ一礼後、読経を行う。

まず、開経偈、懺悔文、三帰、三境、十善戒、般若心経、を読み、更に十三仏真言、光明真言、大師宝号、回向文で終わる。

これを大師堂に移って繰り返す。そして納経所で納経書に朱印と墨書を頂き三百円を支払い、最後に山門で合掌一礼して参拝は終わる。

そして次の11.3km先の七十一番弥谷寺へ向かう。

国道十一号を3.5km程北上すると歩き遍路マークにより国道から分かれて溜池や高瀬の集落を抜ける。

高瀬川を渡って更に進むと標高220mの弥谷山の上に弥谷寺が見えてくる。最後の1.3kmは厳しい登りとなる。山門から三百六十二段上がって、大師堂、更に百八段と百七十段上がって本堂となる。

 大師堂から本堂への石段参道の山側岩壁の前には石仏の列が並べられている。また大師堂のおくには弘法大師空海が少年時代 修行した獅子の岩場がある。

弥谷寺の岸壁の石仏

 次の3.5km先の七十二番曼荼羅寺には山を下り竹林を通って、高松自動車道の高架を潜りって大池の横を通ると間もなく山門に  着く。

 既に十二時であった。曼荼羅寺は母を弔う為に建立した佐伯氏菩提寺である。

 次の600m先には七十三番出釈迦寺弘法大師空海が幼年時代捨身修業した我拝師山を奥の院に持つ寺で捨身遙拝所から我 拝師山に向かって大声で光明真言大師宝号を長時間一心不乱に唱えている白装束の女性が印象に残った。

出釈迦寺本堂

 次の2.2km先の七十四番甲山寺は田圃の中を三十分歩いて着く。

 この寺は弘法大師が天皇の勅願で満濃池の修復工事をした時の工事完成を祈って建立した寺である。

 ここから1.6km歩いて十四時四十五分七十五番善通寺に着く。善通寺は弘法大師空海の生誕の地であり、父の佐伯善通の名前 から善通寺と名付けられたと言われている。

真言宗善通寺派総本山で東院と西院に分かれて広大な敷地内に金堂、五重塔、御影堂、大師堂、など七堂伽藍は高野山、東寺真言宗の三大霊場である。

善通寺境内

大勢の参拝客で賑わっていた。参拝作法に従って参拝後善通寺の宿坊に入る。風呂好きな小生は早速入浴した。一晩で三回入浴し足腰の疲れを取り熟睡した

(常陸国住人後記)

小生の旅は、丸山さんとは逆周りです。丸山さんの今回と次回が下記の小生の旅と重なります。

四国を旅して(その1)  

2のその七 へ    2のその九

 

本山寺(もとやまじ)七宝山(しっぽうざん)持宝院、高野山真言宗。本尊:馬頭観音菩薩

ご詠歌:もとやまに 誰が植えける 花なれや 春こそたおれ 手向けにぞなる

 

本堂と五重塔  山門

 

 寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したと いう。中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。

 天正年間(1573- 1593年)、長曽我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。当寺も例外ではなく諸堂を焼失した が、鎌倉時代建立の本堂(国宝)や仁王門(国の重要文化財)等は兵火を免れ現存している。江戸時代には領主の生駒氏と京極氏によ り再興され、四国八十八箇所第70番札所に定められた。

 

弥谷寺(いやだにじ)剣五山 千手院、真言宗善通寺派。本尊:千手観音

 ご詠歌:悪人と 行き連れなんも 弥谷寺 只かりそめも 良き友ぞよき

 

 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が創建し、当初は蓮華山八国寺と称したという。空海(弘法大師)は713歳の期間、当寺  の獅子窟で修行したという。また、807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安  置し伽藍を再興、その時点で山号を剣五山千手院、寺名を弥谷寺と改めたという。

 室町期には天霧城主・香川氏の庇護を受けたが、天正期に兵火により荒廃。 のち丸亀藩主京極氏の帰依により復興された。

 西讃地方では死去した人の遺髪を当寺に納め供養する「弥谷参り」の風習がある。

 

曼荼羅寺(まんだらじ)我拝師山 延命院真言宗善通寺派、本尊:大日如来。

 

ご詠歌:わずかにも 曼荼羅おがむ 人はただ ふたたびみたび 帰らざらまし

 

 寺伝によれば、弘法大師(空海)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかでら) と称したという。

 弘法大師が唐より帰国後、請来した金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を本尊として再興。母である玉依御前の菩提寺とし 、山号・我拝師山、寺号・延命院曼荼羅寺と改称したと伝える。

 弘法大師の手植えとされた「不老松」があったが、2002年に枯死している

 

出釈迦寺(しゅっしゃかじ)我拝師山 求聞持院。真言宗御室派、本尊:釈迦如来。

 

ご詠歌:迷ひぬる 六道衆生 救はんと 導き山に いづる釈迦寺

 

 寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいの です。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖か ら谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激 した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。

 約300年前までは山頂が札所になっていたが、1920年(大正9年)に麓に移された。

 

甲山寺(こうやまじ)医王山 多宝院、真言宗善通寺派、本尊:薬師如来。

 

ご詠歌:十二神 味方に持てる 戦には おのれと心 甲山かな

 

 弘法大師(空海)が別当として満濃池の完成に導いたことから、築池の成功に対して朝廷から銭二万銭が与えられた。弘仁12(821  年)、その銭の一部によって堂を建立した。

 

 

善通寺(ぜんつうじ)屏風浦五岳山誕生院、真言宗善通寺派総本山。本尊:薬師如来。

 

ご詠歌:我住まば よも消えはてじ 善通寺 深き誓ひの 法のともしび

  

本堂                                    御影堂

五重塔

 

 空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。

 『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期の成立)によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯直田公(さえきのあ たいたぎみ、法名善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中  の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったとい う。

 寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(が はいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名された。

 東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)の延久4年(1072年)の「讃岐国善通寺所司等解」(さぬきのくにぜんつうじしょしらのげ)という 文書に、善通寺の由来について「弘法大師御先祖建立道場」とあり、空海先祖による創建だとする伝えが古くから存在したことが わかる。境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、善通寺は実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないか と推定されている。

 中世には足利氏、近世には高松松平家丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えた。

 また、明治に入ると付近に陸軍基地が置かれ、軍都として発展した。現在も陸上自衛隊善通寺駐屯地がある。

(ウィキペディアなどより)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください