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四国88箇所歩き遍路(第二回ーその七)

第七日目(五月十五日)

(六十六番雲辺寺から六十九番観音寺まで 徒歩距離 23.8㎞ 若松屋本館で一泊)

 

 「民宿白地荘」の軽自動車で倉敷出身の男性と同乗し、六時二十五分宿を出発。小生は雲辺寺登り口で、倉敷の男性は「民宿岡  田」(七百m先)で下車し登り始める。

 最初の1.8km高低差400m登る。急坂で朝の冷気の中深い樹林に囲まれる土道をあえぎながら登る。
 十分に一回の小休止を繰り返しながら尾根に出る。ここから丁石が並ぶ舗装されたゆるやかな道が続く。

 一時間四十分かかり5km歩き六十六番雲辺寺の山門に着く。

 雲辺寺は標高923mで八十八カ寺中最も高い難所の「遍路ころがし」で有名であるが小生には案外容易に登ることが出来た。

 また菩提の道場から涅槃の道場に入っての最初の寺である。弘法大師空海が若い頃修業した事で多数の修行者が学んだ学問  の道場でもあった。大師堂の奥には等身大の五百羅漢像が並んでいて壮観である。

 各々の羅漢像の表情や姿が大変面白くかなりの時間をかけて観賞した。

雲辺寺の五百羅漢像

 雲辺寺から観音寺市瀬戸内海の眺めはすばらしい。雲辺寺山門をでて2km程尾根を歩き、ここから落葉樹林の中を落葉を  踏み占めながら4.3km地点まで下りると平地に出て県道二百四十号に沿って歩く。

 二時間四十分後の十一時五分に六十七番大興寺に着く。

 県道は交通量が少なく道端に一丁毎(百九m)に赤い布を着た地蔵様の道標が置かれ新しい花が供されていて地域住民の信仰の深 さが感じられる。

 大興寺には弘法大師空海が植えたといわれる大木の楠木、樫の木があり、森に囲まれた古刹である。

大興寺山門

 次の六十八番神恵院六十九番観音寺へは田園と部落の中を抜け高松自動車道の高架を潜り、更に一直線に進むと観音寺市街 地に入る。

 JR予讃線財田川を渡ると琴弾八幡宮の前に出て神恵院、観音寺に着く。

 神恵院観音寺同一境内一つの山門、同一納経所一寺二札の珍しい寺である。

神恵院本堂

 楠の大木を挟んで神恵院本堂は近年建てられた近代建築の感じがされ、一方の観音寺本堂は室町時代に建てられていて国 の指定文化財である。
 境内には百人以上の団体参拝客が先達さんの先導に合わせ読経が行われていた。

 参拝終了後、財田川を渡り、若松屋本館に入った。雲辺寺で購入した記念写真はがきに宛先とコメントを書き投函した。

                              2のその六 へ    2のその八


 

雲辺寺、巨鼈山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)真言宗御室派。本尊:千手観世音菩薩。

八十八箇所中で最も標高が高い札所である

 

御詠歌:はるばると雲のほとりの寺に来てつきひを今はふもとにぞ見る

 

 延暦8年(789年)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得 し堂宇を建立したことを起源とする。

 空海はまた、大同2年(807年)には秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9年(818年)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、  七仏供養を行ったという。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修業道場となり、清和天皇勅願寺ともなった。

 鎌倉時代には七堂伽藍が整えられ関所寺となった。天正5年(1577年)土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部 元親雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。所在地は徳島県(阿波)であるが、四国八十八箇所霊場とし ては讃岐の札所として扱われている。昭和62年(1987年)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれ、 訪れやすい寺となった。

 

雲辺寺ロープウエイ

観音寺市から瀬戸内海方面

 

大興寺(だいこうじ)小松尾山、不動光院(ふどうこういん)真言宗善通寺派。本尊は薬師如来。

ご詠歌:うえおきし 小松尾寺を ながむれば 法の教えの 風ぞ吹きける

 

 天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立され、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に開基し、本 尊の薬師如来を刻んで安置した。

 天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年〜1615年)に現在地で再興さ れる

 

神恵院(じんねいん)琴弾山神恵院 真言宗大覚寺派。本尊:阿弥陀如来

ご詠歌:笛の音も 松吹く風も 琴弾きも 歌うも舞うも 法のこえごえ

 

 法相宗の日証琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。

 この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。行基が養老6年(722年)に訪れた後 、大同2年に弘法大師(空海)阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。
 以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所であった。しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮琴 弾神社神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来像も移転に伴い観音寺境内 西金堂に移され現在に至る。

 

観音寺(かんのんじ)七宝山、真言宗大覚寺派、本尊:聖観世音菩薩

 ご詠歌:観音の 大悲の力 強ければ 重き罪をも 引き上げてたべ

 

 伝承によれば、大宝年間(701年〜704年)に、法相宗日証琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見 た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として建立されたの  が観音寺の前身であるという。寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、空海(弘法大師)が聖観世音菩薩像を刻み 本尊として安置したという。

Wikipedia ほかから(常陸国住人)

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