このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
四国88箇所歩き遍路(第二回−その六) 第六日目(五月十三日) (六十五番三角寺から雲辺寺登り口まで 徒歩距離 19.8km 白地荘で一泊) 今日は六十五番三角寺から六十六番雲辺寺の登り口まで進み宿泊する計画である。 十亀さんの車で伊予西条駅まで送って頂き、お別れし、伊予西条九時九分発、特急「しおがぜ十号」で伊予三島に九時三十九分に到着。 三角寺までの遍路途中で昼食の出来る場所が無い為、駅の売店でおむすび二個とお茶を購入し三角寺に向けて出発。 伊予三島の市街地を山に向かって歩き遍路マークに従い進むとやがて松山自動車道に突き当たる。その後はこの松山自動車道に沿って一時間程歩き遍路道を進む。 そこから山登りがはじまる。今日も快晴で吹き出る汗を拭きながら坂道を登る。時々小休止し、振り返えると三島や川之江の町並みや瀬戸内海が綺麗に見える。 やがて一時間四十五分で標高500mの三角寺に到着する。 三角寺全景 七十三段の長い石段を登って、梵鐘の吊るされた山門に着いて、一つ鐘を打って罪の汚れを流した気分になり、本堂、大師堂を参拝する。 三角寺の寺名縁起は弘法大師が三角形の護摩堂を築き国家安泰や万民福祉の為、二十一日間の秘法修業を行った事に由来する。 参拝を終わった後三人の歩き遍路者に会い、休息所で二十分ばかり話をした。三人共今日は雲辺寺に向け麓の佐野で泊まるとの事であった。 ここで菩提の道場の参拝は終わり、涅槃の道場の参拝に入る。 十一時四十分に三角寺を出発し、なだらかな坂道をゆっくり下って行く。 7km程進むまでは車の往来も少なく静かな楽しい歩きであったが椿堂を過ぎて県道百九十二号に入ると大型の激しい騒音に悩みながら暑いアスファルトの歩道を歩き、855mの境目トンネルを抜けて一休みし、昼食を食べた。 ここから携帯電話で今夜の宿の「民宿白地荘」に「民宿岡田」前まで車で迎えに来る様お願いした。 夕食は三角寺で一緒になった倉敷の四十代の男性と一緒で彼は一泊二日で三角寺から大興寺までの三寺区切打ちで帰るとの事であった。 実は雲辺寺登り口の「民宿岡田」へ宿泊をお願いしたが満杯で少し遠いが車で向かえに行く「民宿白地荘」を紹介頂いた経緯があった。 |
三角寺、由霊山(ゆれいざん)、慈尊院、高野山真言宗。本尊:十一面観世音。 ご詠歌:おそろしや 三つの角にも 入るならば 心をまろく 慈悲を念ぜよ 寺伝によれば天平年間(730年‐749年)に聖武天皇の勒願により行基が開基したとされる。空海(弘法大師)が来訪した際、本尊で ある十一面観世音と不動明王を刻み、三角形の護摩壇を築き21日間降伏の秘法を施したとされる。三角寺の寺号はこの護摩壇 に由来する。 境内には三角の池が残り、そのときの名残とされる。嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、 往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたという。 天正9年(1581年)の長宗我部元親軍の兵火で焼失し、現在の建物は嘉永2年(1849年)に再建されたものである。 三角寺山(海抜450m)の中腹にありかつてはかなりの厳しい山道を登らねばならぬ難所寺であったという。 本尊の十一面観世音は子安観音、厄除観音としても信仰されている。妊婦が寺の庫裡にある杓子をひそかに持出し、お産の際に 床下へ置くと安産になるという言い習わしがあり、寺では妊婦が杓子を持ち帰るのを見てみぬふりをし、妊婦は安産下のちは新しい杓 子を持ってお礼まいりにくる習慣がある。また、子宝に恵まれない女性は裏の入口でしゃもじをもらい、自宅に持ち帰り使用して子授け を祈願する。本尊は60年に一度御開帳の秘仏となっている。 |
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