このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


四国88箇所歩き遍路(第二回ーその五)

第五日目(五月十二日)

(六十番横峰寺から六十四番前神寺まで 徒歩距離22.2㎞ 十亀伸一さん宅に一泊)

 

  今日は菩提の道場の一番の難所の「遍路ころがし」である六十番横峰寺を逆打ちし、その後、六十四番前神寺まで参拝する計画 である。瀬戸内バス西条駅発七時十五分に間に合う様に車でバス停まで送って頂いた。
 バス停には、五人の白装束の遍路者がバスを 待っていた。バスが定刻に出発。西条市街地を通り、松山自動車道の高架を潜り間もな く、黒瀬湖のほとりの横峰寺登り口に八時十分 に到着し下車。

 同乗の五人のうち三人はここで登山バスに乗り換えて、直接横峰寺まで直行した。ここから歩きで8㎞登る人は小生と、もう一人である 。

 車中バスの運転手に横峰寺の食堂の有無を確認した所、道中を含め食堂や売店は全く無いのでバス停の上の「温泉旅館京屋支店」で おむすびか弁当を購入して登る様にとの助言を頂いた。

 そこで京屋支店で特製おむすびを作って頂き、リュックザックに入れて、十分程遅れて出発した。

 横峰寺は標高745m、横峰寺登り口との高低差650mである。

 殆どが車道を歩く事になるが前半の3㎞はゆるやかな上がり、そこからの2㎞は上りと下りを繰り返し、有料道路料金所に着く。ここから  少し進むと今度は急坂の九十九折の上りとなる。今日は晴天で道路のアスファルトの照り返しが強く、暑く、荒々しい息をしながら上る。

 6㎞地点で先に歩き出した遍路者を追い越した。車の往来も少なく鳥の鳴き声も無く、静かな歩行である。

 十時に横峰寺本堂に着く。所要時間一時間三十分であった。

 大勢の参拝客で混雑していたので先に奥の院「星の森」に向かう。「星の森」石槌山遙拝所であり、小さな鉄鳥居の前に立 って正面に西日本一の最高峰標高1982mの石槌山の残雪と岩肌をくっきりと見える事ができた。

横峰寺奥の院「星の森」の鉄鳥居より石鎚山を望む

 ここは修験道の修業した所と言われ石積みのが残っていた。横峰寺に戻り、本堂外地蔵石仏の周りは石楠花が今が盛りと    綺麗に咲き心が癒された。

本堂下の石楠花

 参拝が終了してもまだ十一時であり、十分程休息を取り、昨日参拝した香園寺方向に向けて歩き遍路道を下りに入った。

 非常に厳しい急坂であるが深い樹林の日陰道であるため意外に快適な下り歩きが出来た。下り7.6㎞地点で車道に出て香園寺奥 の院の横を通り、松山自動車道の高架を潜り、平地に入る。

 歩きながらおむすびとお茶で昼食を取り、12.6㎞を二時間で歩き六十三番吉祥寺に十四時に着く。

 この寺の御本尊毘沙門天で、脇仏に吉祥天と善哉童子である。次の3.2㎞先の六十四番前神寺に向け歩きながら十亀さんに 携帯電話で前神寺に車で迎に来て頂く様にお願いした。

 大きな石槌神社の鳥居を過ぎて右手に入って行くと金比羅堂修行大師十三仏、石段を上がり、お滝不があり、もう一段上がって 本堂、護摩堂、薬師と並んだ大きな寺である。

  

         前神寺本堂                         前神寺お滝不動前

 参拝納経を済ませた所に十亀さん夫妻にお迎え頂き、寺の縁起や歴史を教えて頂くと共に写真を撮影頂いた。

 前神寺横峰寺と同じく石槌山遙拝所の役割を果して来た。明治の神仏分離前までは現在の石槌神社の位置にあったが神仏分 離令により現在の位置に移転した経緯がある。帰り道で石槌神社の本殿を車の中より眺めその縁起を十亀さんに説明頂いた。

 十亀さん宅に帰る前に昨日と同じく「天然温泉武丈の湯」で二時間入浴し、疲れは完全に抜けていた。

 自宅で美味しい酒と料理でまた楽しい一時を過す事が出来て十亀さん夫妻に感謝。 



(常陸国住人後記)

私も十亀さん宅で楽しい一夜を過ごさせて頂きました。(逆周りでごめんなさい)

四国を旅して(その3)

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横峰寺、
石?山(いしづちざん)福智院(ふくちいん)真言宗御室派。本尊:大日如来。

ご詠歌:縦横に 峰や山辺に 寺建てて あまねく人を 救うものかな

 

 寺伝によれば役行者(役小角)石鎚山頂で修行をしていたところ、蔵王権現が現れたのでその姿を石楠花の木に刻んで堂に安置 したという。その後行基が天平年間(729年〜748年)に、空海(弘法大師)が大同年間(806年〜810年)に入山したと伝え、空海が入 山した際に大日如来を刻み、これを本尊としたという。明治初年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明治42年(1909年)に再興される。

 

吉祥寺、密教山(みっきょうざん)胎蔵院(たいぞういん)真言宗東寺派。本尊:毘沙門天。

 

本尊毘沙門天であるのは八十八箇所では本寺のみ

 

ご詠歌:身のうちの 悪しき悲報を 打ち捨てて みな吉祥を 望み祈れよ

 

  寺伝によれば弘仁年間(810-823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したの  が起源といわれる。

 当初は坂元山にあったが、豊臣秀吉の四国征伐の際に焼失。万治2年(1659年)に現在地に移転、再建された。

 

前神寺(まえがみじ)石?山(いしづちさん)金色院、真言宗石?派。本尊:阿弥陀如来。

 

ご詠歌:前は神 後は仏 極楽の よろずの罪を くだくいしづち

 

 役小角によって開かれた霊峰石鎚山(1981m)の麓にあり、役小角石鎚山で修行を積んだ後、蔵王権現を感得し蔵王権現像を彫 り、後に病気平癒を祈願し成就した桓武天皇782年〜805年)によって七堂伽藍が建てられ金色院前神寺として開かれたと伝えられ る。文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られる。

 後に空海(弘法大師)も巡錫している。このとき空海2石鎚山を登ったといわれる。当寺は、横峰寺とともに山頂の天狗岳に存在 する石鉄権現別当寺にあたり、東側の遥拝所でもあった。

 江戸時代には西条藩主である松平家の信仰も集め松平氏は東照宮をまつり、三葉葵の寺紋を許した。本寺は里前神寺と称されること もあるが、これは海抜1500mあたりにある前神寺の出張所を奥前神寺と呼び区分するためでもある。石鎚山別当寺であったものの 、明治の神仏分離令により廃寺1878年(明治11年)に再興されて現在に至る。

(Wikipedia などより) 

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