このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

四国88箇所歩き遍路(第二回ーその4))

第四日目(五月十一日)

(五十六番泰山寺から六十二番宝寿寺まで 徒歩距離 18.8㎞ 十亀伸一さん宅に一泊)

笑福旅館を六時三十五分に出発し、今治市街地を進む。甲子園の高校野球で有名な明徳高今治西高の横を通り、3㎞先の山側に五十六番泰山寺に七時十分に到着した。

まだ朝早く参拝客はいない。小生が最初の納経所訪問者であった。大きな石段に白壁で囲まれた中に小じんまりとした本堂大師堂が配置された寺である。

次の五十七番栄福寺は水田地帯の田舎道を進み蒼社川を幅2m程の渡し板の上を5m歩き水の無い中州を歩き渡った。

その後八幡神社を周り栄福寺に着いた。この寺を巡拝し、次の五十八番仙遊寺へは大池地を回り込んで標高280mの作礼山頂へ登る。

雑木林の日陰の中を登山階段を手摺につかまりながらあえぎあえぎ登る。この参道には西国三十三場の観音石仏が並んでおり足を止めて参観した。

また作礼山頂仙遊寺から見る今治市近海の眺めは格別なものであった。

作礼山から見た今治市近海

 次の五十九番国分寺に向け歩く。午前十時半を過ぎると快晴で気温が二十七度を超え灼熱の中を無心で歩く。桶田川を渡ると間もな く国分寺山門となる。6.1㎞を一時間二十五分で歩いた事になる。

 伊予国分寺聖武天皇が国家鎮護を祈願して各国に建立した一つであり、その後何回も焼失するも現在の本堂は寛政元年に再建さ れ、今日に至っている。境内は団体客で賑わっていた。

 急いでJR予讃線伊予桜井駅に移動し、普通列車で伊予小松へ十二時一分に着く。駅前の食堂で焼肉定食をたべる。六十番宝寿寺 は市街地の繁華街にあり、霊場としての霊気を感じられない寺である。

 次に 1.3㎞先の六十一番香園寺へは逆打ちし、国道十一号線に沿って商店街を進み二十分で着いた。この寺は本堂大師堂を一 体としてコンクリート製の長方形で外観は大聖堂の感じでお寺という感じはしない。二階に上がると寺院の内部は大きな大日如来を中  心にした仏像が並ぶ前に大護摩台座があり、四百人の参拝客が参列できる構造になっている。

香園寺本堂内部

 参拝終了後また伊予小松駅に戻りJR予讃線で伊予西条駅十五時五分着で移動。

 ここで国分工場学卒同期の十亀伸一さん夫妻の出迎え頂いた。まだ時間が早いので西条市が一望できる高台にある考古学歴史館 に車で案内頂き、山の上から西条市街地、パナソニック四国、造船所のある海岸地帯を含む大パノラマを眺めることができた。

 遍路の疲れを取る為温泉で入浴をしたらとの助言を頂き十亀さんが良く利用している「天然温泉武丈の湯」に案内頂き三人で二時間 入浴し、遍路の疲れを完全に取る事が出来た。

 入浴後は美味しい食事を頂き国分工場現役時代の話を回顧し楽しい時間を過した。

(常陸国住人後記)

私も十亀さん宅に泊まらせて頂き。楽しい夜を過ごしました。下記をご覧下さい
泰山寺と国分寺を参観しました

四国を旅して(その3)

2のその三      2のその五

 

 

泰山寺、金輪山、勅王院(ちょくおういん)真言宗醍醐派、本尊;地蔵菩薩。

ご詠歌:みな人の 詣りてやがて 泰山寺 来世の引導 たのみ置きつつ

 

寺伝によれば弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に、蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていた。空海は村人に堤防を築かせ、完成後に河原で土砂加持の秘法を行った。そのとき満願日に空中に延命地蔵菩薩が現われた。そこで空海地蔵菩薩像を刻み、堂宇を建て本尊として安置したという。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。

天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度の兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築された

 

栄福寺、府頭山(ふとうざん)、無量寿院、高野山真言宗、本尊:阿弥陀如来。

ご詠歌:この世には 弓矢を守る 八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏

 

寺伝によれば、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁年間(810年〜824年)に海難防止を祈願して開基したと言われている。後に行教上人が山頂に神仏混合の岩清水八幡宮を創建した。

明治初年に神仏分離令によって現在地に移された。

 

仙遊寺作礼山(されいざん)、千光院、高野山真言宗、本尊:千手観世音菩薩。

 

ご詠歌:立ち寄りて 佐礼の堂に 休みつつ 六字を唱え 経を読むべし

 

天智天皇の勅願によって伊予の大守越智守興が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が本寺に暮らしていたが養老2年(718年)に突然姿を消してしまったことが寺名の由来になっているという。空海(弘法大師)が本寺に逗留して修法を行った折には、伽藍を復興し井戸を掘ったとされる。

江戸時代に荒廃してしまったが、明治初期に宥蓮上人が再興した。

 

伊予国分寺、金光山(こんごうざん、最勝院(さいしょういん)真言律宗、本尊:薬師瑠璃光如来。

 

札所寺院としては、単に「国分寺」と称するのが通例である。

 

ご詠歌:守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよ恵む 薬師なりけり

 

天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、後に空海(弘法大師)が長期にわたって逗留し五大明王像を残したとされる。

史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)、伊予国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。

長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、後に再興される。焼き討ちの際に焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。

現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。礎石の配置が確認されており、そこが旧境内の東塔と認められている。

 

宝寿寺、天養山(てんようざん)、観音院、高野山真言宗、本尊:十一面観世音菩薩

 

ご詠歌さみだれの あとに出でたる 玉の井は 白坪なるや 一の宮川

 

寺伝によれば聖武天皇勅願によって 天平 年間(729748)に、道慈律師によって建立され金剛宝寺と名付けられた。大同年間(806810)に空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、現在の寺名に改めたという。

天正13年(1585豊臣秀吉の戦禍によって荒廃。寛永13年(1636宥伝上人によって現在地付近に移されて再興。

明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となった。大石龍遍上人によって明治10年(1877)に再興された。大正10年(1921予讃線工事に伴い現在の地に移転した。

 

香園寺(こうおんじ)栴檀山(せんだんさん)教王院、真言宗系の単立寺院。本尊:大日如来。

子安大師の寺として親しまれている。

 

ご詠歌:後の世を 思へば詣れ 香園寺 止めて止まらぬ 白瀧の水

 

寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立したという。天平年間(729年〜749年)には行基が巡錫、大同年間には空海が本寺で護摩修法をしたとされる。

実際の創建年は不詳である。天正年間(1573年〜1592年)兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年〜1644年)に再興されている。また古くは、高加神社の別当寺であったとされる

 

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください