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四国88箇所歩き遍路(第二回ーその三) 第三日目(五月十日) (五十二番大山寺から五十五番南光坊まで 徒歩距離23.1㎞ 笑福旅館に一泊) 今日は五十二番大山寺から五十五番南光坊まで 行き交う人に聞きながら進むと道後温泉本館前に出る。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる二層楼のどっしりとした風格のある姿に歴史 を感じた。この建物の前で浴衣姿でタオル持参の入浴客が早朝からいるのが目に付いた。 そこから仲見世商店街のアーケード通りを抜けると県道百八十七号、そして護国神社前を通り、川沿に5㎞程すすむ。この道は川をはさみ 片側が交通量の多い車道、もう片側は完全歩道に分離していて歩く人には安全である。朝早くからランニングする人、犬を連れて散歩す る人達など松山市の人達は健康に注意して生活している様である。 約三時間歩いて大山寺の一の門に着く。一の門、仁王門、山門と四百五十mの長い上りが段々きつくなり、本堂、大師堂に着く。この 寺の鐘楼は二階建てで一階に地獄絵図、極楽絵図、二階に鐘がある構造は大変ユニークで、また本堂も国指定の文化財である。 大山寺本堂 次に松山市郊外の2.5㎞先の五十三番円明寺に向かい田舎道を歩く。 ここには江戸時代の銅製の納め札(今は紙製)が残っていたり、マリア像の石塔等が見所である。 お参りを済ませて次の34.4㎞先の五十四番延命寺へ移動する為、JR予讃線の伊予和気駅へ向かう。伊予和気駅十時三十五分発 の普通列車に乗る。海岸線を進む車窓から瀬戸内海の穏やかな海と島々、行き交う船の風景は心に残るものであった。 十二時二十分に伊予大西駅に到着する。下車時六十才代に見える女性が近いて来て二百円のお接待を受ける。別れ際に「道中の安 全を祈願します。」と有り難いお言葉を頂いた。 伊予大西駅より4.5」㎞先の延命寺に向け歩いて途中で50m先を男女二人の白装束の遍路が見えて来た。そのうちに一緒になり延命 寺に入った。 延命寺本堂 この寺は行基上人作の不動明王が御本尊で二組の団体参拝客が先達産の後について読経を上げていた。我々三人も揃って読経を上 げ、お茶堂で昼食を取った。この二人は夫婦で(夫六十七才、妻六十一才)奥さんがこの三月末に定年退職し、その記念に四月一日より 歩き遍路している様だ。 「今日で四十一日目で五十四番まで打ち終わった。もう苦痛は過ぎて最後まで完歩できる自信が出てきた。やはり発心の道場の二十三 番薬王寺までが山で後は楽に歩けるようになった。」と感想を述べていた。 十二時十五分に延命寺を出発し、境内横の坂を上り小高い丘を越えて大谷霊園を抜けると今治市街地に入る。五十五分かけて3.4 ㎞歩き五十五番南光坊に着く。南光坊は隣に有る大きな一ノ宮大山祇神社の別宮法楽所であった。明治の神仏分離令で大山祇 神社の本地仏の大通智勝如来を御本尊とし、南光坊となった。また寺名は八十八ヶ寺の内唯一の寺の字がない珍しい寺である。 南光坊山門 納経所で御朱印と墨書を頂いた時、小生の納経書には住所氏名が未記入であったので盗まれるので記入しましょうと言い、記入頂いた。 その人は以前家電品販売店を経営していて日立の製品を扱っていた由、日立製品の品質の良さを褒めてくれて大変嬉しく感じた。 十五分程歩き今日の宿笑福旅館に着く。夕食は六人の歩き遍路者一緒に酒を飲みながら楽しく過した。 (常陸国住人後記) |
太山寺(たいさんじ)瀧雲山護持院、真言宗智山派、本尊:十一面観世音菩薩。 ご詠歌:太山に 登れや汗の 出でけれど 後の世思えば 何の苦もなし 太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。 それによると、飛鳥時代の用明天皇2年(587年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が止んだ。光の差した場所に行ってみると十一面観音を祀った堂があった。長者は感謝しそこに寺院を建立するため、豊後より一晩で建材を持ち込んだ。そして、山腹に一夜にして寺院を建立したということである。 寺伝によれば、天平5年(733年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、天平勝宝元年(749年)に現在の地に移転されたと伝えられている。 嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって本堂が再建され、、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。 圓明寺(えんみょうじ)須賀山、正智院、真言宗智山派、本尊:阿弥陀如来 ご詠歌:来迎の 弥陀の光の 圓明寺 照りそう影は 夜な夜なの月 寺伝によれば天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基が本尊阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を刻んで開基したという。当初は現在地より北の浜にあり海岸山圓明密寺と称した。後に空海(弘法大師)がこの地を巡錫し伽藍を整備したという。 鎌倉時代以降に幾度か兵火によって荒廃、元和年間(1615年〜1624年)に現在地に移転。寛永10年(1633年)、須賀専斎重久がその私財をもって再興したものという。寛永13年(1636年)に現在の寺号に改称される。 延命寺、近見山、宝鐘院(ほうしょういん)、真言宗豊山派。本尊:不動明王 ご詠歌:くもりなき 鏡の縁を ながむれば 残さず月を うつすものかな 伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)に行基が不動明王を刻み堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年〜824年)に空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。 かつては現在地の北の近見山にあって、谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。 しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に現在の地に移転した。 鎌倉時代には著書の多きこと日本一で学問は内外に通じ、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの大学僧示観国師凝然がこの寺の西谷の坊で八宗綱要を著したことは有名である。明治の頃、五十三番札所の須賀山圓明寺との混同を避けるため、通称の延命寺を寺号とした。 南光坊(なんこうぼう)別宮山(べっくさん)金剛院光明寺、真言宗醍醐派。本尊:大通智勝如来。 ご詠歌:このところ 三島の夢の さめぬれば 別宮とても おなじ垂迹 『神の島』といわれる大三島に鎮座する大山祇神社の別宮として伊予国越智郡日吉村の地に別宮大山祇神社が勧請されたのは大宝3年(703年)、異説にあってはそれから9年後の和銅5年(712年)と伝えられている。大山祇神社にはその数24の僧坊があったが、この年、そのうちの南光坊を含む8坊がその別宮の別当寺としてともに遷されたという。なお、これら8坊の移転を正治年間(1199年- 1201年)とする説もある。 これらの坊はそれからしばらくともに存続していたが、天正年間(1573年〜1592年)に、伊予の全土を襲った長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、失われることとなった。 しかしのちに至って、それらのうちの一坊である南光坊のみが別宮(大山祗神社)の別当寺として再興されることとなった。ここに今に至るところの別宮山南光坊の歴史が始まった。 江戸時代には藤堂高虎の祈祷所として薬師堂が再建されるなど、近世は今治藩主の篤い崇敬と庇護を受ける神宮寺としてあった。文久年間(1861年〜1864年)には金毘羅堂が造られる。 時も下って明治になると、神仏分離令にしたがう形で神仏習合の状態を脱し、これをもって、大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)を本尊とする寺として独立した。 大正5年(1916年)には大師堂が建造される。第二次世界大戦のさなかには境内が激しい空襲に晒され、これにより伽藍のほとんどが焼失したが、金毘羅堂とこの大師堂だけは無傷であった。 |
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