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大寶寺菅生山(すごうさん)大覚院、真言宗豊山派、本尊:十一面観世音菩薩。 ご詠歌:今の世は 大悲のめぐみ 菅生山 ついには弥陀の 誓いをぞまつ 寺伝によれば百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。大宝元年に安芸から来た明神右京、隼人の兄弟の猟師がその観音像を見つけて草庵を建てて祀ったといい、奏上を受けた文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。 仁平2年(1152年)に失火により寺は焼失、保元元年(1156年)、後白河天皇の勅使が天皇の脳の病気平癒を祈願したところ病が治ったため、天皇は妹宮を住職として下向させ、勅願寺として七堂伽藍を有する寺院として再興されたという。 天正年間(1573年〜1592年)には長宗我部元親の兵火で再度焼失、元禄年間(1688年〜1704年)に、伊予松山藩主加藤義明などの支援で雲秀法師が再興した。明治7年(1874年)にも失火で焼失するが、地元の人々によって再興を果たした。病気平癒を祈願する人が多く、中でも脳の病に霊験があるとして受験生の参拝も多いという。 浄瑠璃寺医王山(いおうざん)、養珠院(ようじゅいん)真言宗豊山派、本尊:薬師如来。 ご詠歌:極楽の 浄瑠璃世界 たくらへば 受くる受難は 報いならまし 和銅元年(708年)に大仏開眼を前にした布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興した。 室町時代末期には足利幕府の武将が伽藍を整備した。正徳5年(1715年)の山火事で焼失し、江戸時代中期の天明5年(1785年)に住職の尽力により復興した。 八坂寺熊野山(くまのざん)、妙見院(みょうけんいん)真言宗醍醐派、本尊:阿弥陀如来。 ご詠歌:花を見て 歌読む人は 八坂寺 三仏じょうの 縁とこそ聞け 寺伝によれば役行者によって開基され、大宝元年(701年)に、伊予の国司越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。 熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え、12坊、84の末寺を持ち多くの僧兵を抱える大寺となった。天正年間(1573年〜1592年)には兵火によって焼失してからは寺域も縮小し、現在の境内となっている。 西林寺清滝山(せいりゅうざん)安養院(あんよういん)真言宗豊山派。本尊:十一面観世音菩薩。 ご詠歌:弥陀仏の 世界を訪ね 行きたくば 西の林の 寺に詣れよ 寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受け、天平13年(741年)に行基が伊予国国司越智宿禰玉純と共に堂宇を建立、本尊の十一面観世音菩薩を刻んで開基したという。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺に逗留し奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたといわれる。 17世紀末に火災で焼失したが、元禄13年(1700年)松平定直らによって一部再建、その後宝永4年(1707年)には本堂と鐘楼堂が、文化10年(1813年)に大師堂、天保14年(1843年)に仁王門が再建された。 浄土寺林山(さいりんざん)三蔵院(さんぞういん)真言宗豊山派、本尊:釈迦如来 御詠歌:十悪の 我身を棄てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ 天平勝宝年間(749年-757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。 平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間(957年-960年)にこの寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192年)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416年)には兵火で焼失。河野通宣によって文明14年(1482年)に再建された。慶安2年(1649年)には大規模な修繕が行われている。 繁多寺(はんたじ)東山瑠璃光院(るりこういん)真言宗豊山派、本尊:薬師如来。 ご詠歌:よろずこそ 繁多なりとも 怠らず 諸病なかれと 望み祈れよ 寺伝によれば天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。 一時後衰退するが、源頼義により再興され、1279年(弘安2年)には後宇多天皇のために聞月上人が、祈祷を行なっている。また、一遍上人も当寺で学問修行したと伝えられる。上人は後に「捨聖」として遊行し、1288年(正応元年)亡き父である如仏を偲び三部経を奉納している。 1394年(応永元年)には京都泉涌寺26世快翁師が後小松天皇の命を受け繁多寺第7世の住職に就き、以降1681年〜1684年(天和年間)の寵湖など高僧が相継いで住職となるが、寵湖は徳川家の帰依を得ることとなり、4代将軍
家綱
の念持仏三体の一つである歓喜天を祀られることとなった。将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。 松山市を見下ろす淡路山の中腹にあり、山門からの展望が素晴らしく、松山城や瀬戸内海までが俯瞰でき背後には鬱蒼とした樹木が繁る。境内周辺は景観樹林保護地域に指定されており、サクラや秋の紅葉の名所でもある。 石手寺(いしてじ)熊野山虚空蔵院(こくうぞういん)真言宗豊山派、本尊:薬師如来。 ご詠歌:西方を よそとは見まじ 安養の 寺に詣りて 受くる十楽 寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。 河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。しかし、永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。 また、遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。 道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。 |
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