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四国88箇所歩き遍路(第二回—その二)

第二日目(五月九日)

(四十三番太宝寺から五十一番石手寺まで、徒歩距離28.9㎞ 民宿みよしに一泊)

今日の予定は五十一番石手寺までの八寺を済ます予定である。その為には久万バス停発九時十分のバスに間に合う様にすることがポイントである。

この目的の為、昨夜宿の女将に支払いを済ませ、朝四時三十分に起床し、五時五分前に静かに宿を出発。

五分程朝霧の中を歩いていると、昨日、参拝した四十五番岩屋寺の鐘の音が谷間にこだましてきた。

岩屋寺の御詠歌、「山高き、谷間に朝霧海に似て松吹く風に波にたとえむ」の風景が眼前に見える様であった。

2㎞程下ると古岩屋に至り、観光用案内板の説明を読むとこの谷間の両側の岩壁の上方にある「洞穴」は昔、修験者が修業した所と述べてある。

ここから少し進んだ所に歩き遍路道の入口があり、ここを通って杉や松の林の中を落ち葉を踏みしめながら正岡子規の句碑や朽ちた修験道の修業者の住居の横を通りって静釈な道を進む。

朝六時を過ぎた頃からウグイスの鳴き声も時々聞こえる様になった。宿から5.5㎞ほど来た所で車道にぶつかり、久万ふるさと旅行村に入った事を知る。

ここから3㎞通過し車両が全く通らない国道を進むと全長600mの御師堂トンネルになる。

このトンネルを約十分で抜けると大宝寺へ後1.7㎞の表示板があった。

歩き遍路道を進めば後二十五分で四十四番大宝寺に着くと好い気になったのが運の付きであった。

歩き遍路道に入って十分程で道標の赤印マークを見失ってしまった。ここで後に戻って表示マークを確認する基本を忘れ適当な判断で分かれ道を進むと道が無くなってしまった。

仕方なく道の無い雑木林の中を谷の方向を目指して進みとやっと車道が見えて来た。

そこへ藪こぎしながら下りてゆくと何と御師堂トンネルの入口であった。約一時間の無駄な時間を迷っていた事になる。

今度は時間がかかるが車道を進んで八時三十分に大宝寺入口にやっと辿り着いた。

何百年もの樹齢の杉松の巨木に囲まれた参道に沢山寄進された観音石仏、地蔵石仏が並んでいる中を登って行くと山門に着く。

山門には大きなわらじがあり、両側の仁王像も歴史を感じられた。

                   

大宝寺参道の杉並木                          山門の大わらじ

本堂、大師堂も銅瓦屋根で本堂には十一面観音像が祭られている。参拝客はまばらであった。

急いで久万中のJR四国のバス停に向かった。バス停では朝食の大きなむすびを二個食べる。梅干三個入った塩むすびを大変美味しく頂いた。                   

九時十分発のバスに乗り三坂峠を下り、十時には塩ヶ森バス停で下車する。

バス運転手に教えて頂いた歩道を下る。緑の木々に囲まれた山道は所々にある紫色の藤の花、橙色の山躑躅の花を観賞しながら平地に下り、三つの溜め池の横を通り、県道百九十四号線に入る。

間もなく四十六番浄瑠璃寺に十時四十分に着く。

この寺は狭い境内にこじんまり纏っており、仏足石、仏手石柏植の大木等見所が多く参拝客で賑わっていた。

次に1㎞先の四十七番八坂寺に着く。

八坂寺山門

南門より入った所で地元ロータリークラブの皆さんがお茶と記念タオルを配布するお接待を行っていた。うれしく接待を受けた。

次の4.5㎞先の四十八番西林寺へは県道百八十四号から国道四十号と車道の脇の歩道を歩く。

重信川を渡りると直ぐ西林寺門前に着く。

門前のうどん屋に入り昼食にてんぷらうどんを食べる。既に十二時も過ぎ、20㎞以上も歩いたのでお腹が空いていて美味しい昼食であった。

昼食後西林寺の二層構造の山門を潜り、本堂、大師堂で参拝した。

次に3.2㎞先には四十九番浄土寺がある。

浄土寺本堂

この辺りの地域には旱魃に見舞われた時、弘法大師錫状で水脈を見つけた杖の淵、また温泉を湧出させた鷹の子温泉がある。

今夜の宿をこの鷹の子温泉ホテルにしたいと思い、昨夜電話するもつながらず、断念した。次の2.5㎞先の五十番繁多寺には十五時に到着した。

参拝後急いで2.8㎞先の五十一番石手寺へ向かう。

繁多寺から石手寺へ向け1㎞程歩くと国道四十号を歩く事になった。この辺は松山市の下町街で狭い国道の両側に商店が並び歩道は五十㎝程で白線のみで、車道との区分けは無く人が歩く横を自動車が猛スピードで通り過ぎて行き交通事故の危険性を凄く感じた。

十六時に石手寺に到着する。有名な道後温泉石手寺から歩いて十分程の近くで石手寺は観光客で賑わっていた。

両側に土産品屋が立ち並ぶ参道を通り境内に入ると山門の大わらじ、三重塔、国宝の十一面観音像の安置された本堂、等身大の大師像が安置された大師堂阿弥陀堂、絵馬堂、等が立ち並ぶ大伽藍はすばらしい。

石出寺山門

お参りを済ませ、境内を一時間程参観し、寺内にある「民宿みよし」に入った。夕食が終わり自分の部屋で明日の準備をしている時に携帯電話が鳴る。

それは明日(五月十一日)お世話頂く十亀さんから遍路中の進行状況の確認とくれぐれも交通事故に注意する様にとの助言であった。大変有り難い話である。

石手寺近辺の歩行に先程危険を感じていたので身が引き締まる思いであった。

 

(常陸国住人後記)

 小生が四国に行った時も、十亀さんにお世話になりました。

そして、松山城、石出寺などを見て、宿に向かう途中、交通事故で倒れている男を見ました。

その辺のことは下記をご覧下さい。

    四国の旅(その3) ここをクリック!

2のその一へ     2のその三   
 

 

大寶寺菅生山(すごうさん)大覚院、真言宗豊山派、本尊:十一面観世音菩薩。

ご詠歌今の世は 大悲のめぐみ 菅生山 ついには弥陀の 誓いをぞまつ

寺伝によれば百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。大宝元年に安芸から来た明神右京、隼人の兄弟の猟師がその観音像を見つけて草庵を建てて祀ったといい、奏上を受けた文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13(822)空海(弘法大師)が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。

仁平2(1152)に失火により寺は焼失、保元元年(1156)後白河天皇の勅使が天皇の脳の病気平癒を祈願したところ病が治ったため、天皇妹宮を住職として下向させ、勅願寺として七堂伽藍を有する寺院として再興されたという。

天正年間(1573年〜1592)には長宗我部元親の兵火で再度焼失、元禄年間(1688年〜1704)に、伊予松山藩加藤義明などの支援で雲秀法師が再興した。明治7年(1874年)にも失火で焼失するが、地元の人々によって再興を果たした。病気平癒を祈願する人が多く、中でも脳の病に霊験があるとして受験生の参拝も多いという。

 

浄瑠璃寺医王山(いおうざん)、養珠院(ようじゅいん)真言宗豊山派、本尊:薬師如来。

ご詠歌極楽の 浄瑠璃世界 たくらへば 受くる受難は 報いならまし

和銅元年(708年)に大仏開眼を前にした布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩十二神将を刻んで安置して開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興した。

室町時代末期には足利幕府の武将が伽藍を整備した。正徳5年(1715年)の山火事で焼失し、江戸時代中期の天明5年(1785年)に住職の尽力により復興した。

 

八坂寺熊野山(くまのざん)、妙見院(みょうけんいん)真言宗醍醐派、本尊:阿弥陀如来。

ご詠歌花を見て 歌読む人は 八坂寺 三仏じょうの 縁とこそ聞け

寺伝によれば役行者によって開基され、大宝元年(701)に、伊予の国司越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。一時荒廃するが、弘仁6(815)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。

熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え、12坊、84の末寺を持ち多くの僧兵を抱える大寺となった。天正年間(1573年〜1592年)には兵火によって焼失してからは寺域も縮小し、現在の境内となっている。

 

西林寺清滝山(せいりゅうざん)安養院(あんよういん)真言宗豊山派。本尊:十一面観世音菩薩。

ご詠歌弥陀仏の 世界を訪ね 行きたくば 西の林の 寺に詣れよ

寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受け、天平13年(741年)に行基伊予国国司越智宿禰玉純と共に堂宇を建立、本尊の十一面観世音菩薩を刻んで開基したという。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺に逗留し奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたといわれる。

17世紀末に火災で焼失したが、元禄13年(1700年)松平定直らによって一部再建、その後宝永4年(1707年)には本堂と鐘楼堂が、文化10年(1813年)に大師堂、天保14年(1843年)に仁王門が再建された。

 

浄土寺林山(さいりんざん)三蔵院(さんぞういん)真言宗豊山派、本尊:釈迦如来

 

御詠歌十悪の 我身を棄てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ

天平勝宝年間(749-757)孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。

平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間(957-960年)にこの寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192年)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416年)には兵火で焼失。河野通宣によって文明14年(1482年)に再建された。慶安2年(1649年)には大規模な修繕が行われている。

 

繁多寺(はんたじ)東山瑠璃光院(るりこういん)真言宗豊山派、本尊:薬師如来。

ご詠歌よろずこそ 繁多なりとも 怠らず 諸病なかれと 望み祈れよ

寺伝によれば天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。

一時後衰退するが、源頼義により再興され、1279年(弘安2年)には後宇多天皇のために聞月上人が、祈祷を行なっている。また、一遍上人も当寺で学問修行したと伝えられる。上人は後に「捨聖」として遊行し、1288年(正応元年)亡き父である如仏を偲び三部経を奉納している。

1394年(応永元年)には京都泉涌寺26快翁師後小松天皇の命を受け繁多寺第7世の住職に就き、以降1681年〜1684年(天和年間)の寵湖など高僧が相継いで住職となるが、寵湖徳川家の帰依を得ることとなり、4代将軍 家綱 の念持仏三体の一つである歓喜天を祀られることとなった。将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。

 

松山市を見下ろす淡路山の中腹にあり、山門からの展望が素晴らしく、松山城瀬戸内海までが俯瞰でき背後には鬱蒼とした樹木が繁る。境内周辺は景観樹林保護地域に指定されており、サクラや秋の紅葉の名所でもある。

 

石手寺(いしてじ)熊野山虚空蔵院(こくうぞういん)真言宗豊山派、本尊:薬師如来。

ご詠歌:西方を よそとは見まじ 安養の 寺に詣りて 受くる十楽

寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基薬師如来刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。

河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。しかし、永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。

また、遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。

道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、20093月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。

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