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四国88箇所歩き遍路(第二回ーその九) 第九日目(五月十六日) (七十六番金倉寺から八十番国分寺 徒歩距離 27.6kmえびすや旅館で一泊) 朝五時三十分より善通寺御影堂で朝の勤行が行われた。約七十人の参拝客と一緒に参加。真言宗の総本山の御影堂だけあり大日如来を中心に仏像三体と周囲に台蔵曼荼羅図、金剛曼荼羅図があり薄暗い堂内に多数のロウソクの灯がともり、その中で十人の僧の読経は特別な霊気を感じさせる雰囲気であった。 読経後に二十分程、住職より講話があった。四国遍路に参加される人達をある大学で分析した結果、真言宗よりも浄土真宗の人が多いとの結果が出た事。 真言宗は何れの宗派も受け入れている事。次に浄土真宗の九品の言われについて講話され大変参考になった。 朝食後六時五十五分に宿坊を出発。 五重塔の横の赤門を出て善通寺市街地を通り、郊外の住宅地を抜け高松自動車道の下を潜り少し行くと3.8km先の七十六番金倉寺に着く。 この寺は弘法大師空海の甥円珍の生誕地で天台宗の寺である。 また明治時代、善通寺に陸軍第十一師団があり、乃木将軍が師団長であった頃寄宿した所である。 ここから次の3.9km先の七十七番道隆寺は国道十一号をまたぎ歩き遍路道を多度津町の住宅地と麦畑の中を北上すると間もなく到着する。 刈り入れ前の麦は今年は豊作のようである。 この寺の御本尊は薬師如来で「目治し薬師様」と呼ばれ眼病の霊験が新たかと言われている。 また二百七十体の赤布衣を着た観音石仏の並ぶ姿は荘厳である。 道隆寺の千体観音石仏 ここから国道三十三号で丸亀城を横に見ながら中心街を通過し、宇多津町に入ると高台にある七十八番郷照寺に着く。 この寺は四国八十八カ寺の中で唯一の時宗の寺である。昔一遍上人がこの寺に留まり、踊り念仏の道場として活動したことに由来している。 大師堂の横には一万五千体の観音様が納められている万体観音堂がある。 次の5.9km先には七十九番高照院・天皇寺がある。 瀬戸中央自動車道の下を潜り坂出市街地を通り、JR予讃線八十場駅前にある。保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇が崩御された事から寺名が由来している。 この寺は大きな鳥居から入り境内には白峰が同居しており神仏混合のままの姿である。 ここまで来て気が付いた事であるが丸亀市でも坂出でも市民は皆、自転車を交通手段として使っている事。農地は稲田より麦畑が多く 午後二時も過ぎ一路八十番国分寺に向け歩いて行くと天気予報通り雨が降り出した。 民家の軒下を借り、雨具に着替え、再スタートする。JR予讃線鴨川駅前で綾川を渡り、しばらく行くと関の池の前で国分寺に着く。 ここの寺は讃岐の国分寺で境内の一番奥に入母屋造りの本堂があり、そこへの参道脇に八十八体の仏足石もあり、昔の国分寺金 堂の礎石を見て昔を偲ぶなど見所が多い。雨降りの中、参拝を済ませ急いで今日の宿「えびすや旅館」に入る。 風呂に入って体の疲れを取ると共に濡れた衣類の洗濯を急いで行った。夕食は五人の歩き遍路者と酒を飲み交わし楽しい一時を過し た。 (常陸国住人) |
金倉寺(こんぞうじ)鶏足山宝幢院(ほうどういん)天台寺門宗、本尊:薬師如来。 ご詠歌:まことにも 神仏倉を 開くれば 真言加持の 不思議なりけり 金倉寺は、寺伝によれば円珍の祖父である和気道善により宝亀5年(774年)に道善寺として創建され、延長6年(928年)、醍醐天 皇の勅命により「金倉郷(当時の地名)」から名前をとり現在の金倉寺と改名したとされる。 円珍(智証大師)の生誕地として知られる。明治期には乃木希典が客殿を仮住まいにしていた時期があり、客殿には乃木ゆかりの 品々が展示され、境内には銅像もある。 道隆寺(どうりゅうじ)桑多山(そうたざん) 明王院、真言宗醍醐派大本山本尊:薬師如来。 ご詠歌:ねがいをば 仏道隆に 入りはてて 菩提の月を 見まくほしさに 天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、当地の領主である和気道隆が乳母を誤って射殺してしまったため、これを悲しん で桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。 郷照寺(ごうしょうじ)仏光山広徳院。時宗、本尊:阿弥陀如来 ご詠歌:踊りはね 念仏唱う 道場寺 ひょうしをそろえ 鐘を打つなり 寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に阿弥陀如来を本尊として開基、当初は道場寺と呼ばれていた。弘仁6年(815年)に空海( 弘法大師)が伽藍を整備した。後に一遍上人が踊り念仏の道場寺とし、その頃に郷照寺に改称したという。 天皇寺(てんのうじ)、金華山、高照院真言宗御室派、本尊:十一面観世音菩薩。 「天皇寺高照院」境内は崇徳上皇を祀る白峰宮に隣接し、元は白峰宮の神宮寺であった。 ご詠歌:十楽の 浮世の中を たづぬべし 天皇さへも さすらひぞある 伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった日本武尊ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が泉の 水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば) の霊水」と呼ばれるようになったという。 その後空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、十一面観音、阿弥陀如来、愛染明王の三尊像をつくって堂を建て安置したと いい、また、薬師如来を刻んで安置して、泉を閼伽井としたのが起源であるという。当初は摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじ ょうじゅじ)と称したという。 寺号の「天皇」は崇徳上皇に因むものである。保元の乱で敗れた崇徳上皇は坂出に配流となり、長寛2年(1164年)そこで死去した。 上皇の亡骸の処遇をめぐって、京から返事の使者を待つあいだ、遺骸をこの八十場の霊泉に浸したところ、21日間すぎたのちも、上 皇の顔はまるで生きているごとくだったという。 やがて上皇は荼毘に付され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られた。このことから妙成就寺は「天皇寺」と呼ばれるよう になり、白峰宮は「天皇さん」と愛称で親しまれるようになった。そして、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになった。 しかし、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。 摩尼珠院妙成就寺は、明治初年の神仏分離令によって廃寺となった。その後末寺の高照院が移転してきて七十九番札所を引き継 いだものである。 讃岐国分寺、白牛山、千手院、真言宗御室派、本尊:千手観世音菩薩 札所寺院としては単に「国分寺」と称するのが通例である。 ご詠歌:国を分け 野山をしのぎ 寺々に 詣れる人を 助けましませ 聖武天皇が天平13年(741年)に発した国分寺建立の詔により、日本各地に建立された国分寺の1つである。寺伝では行基が千手 観世音菩薩を本尊として開基したとされるが、現存する本尊像は当時のものではない。 史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)、讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を 下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。 現・国分寺境内を含む讃岐国分寺跡は国の特別史跡に指定されている |
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