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四国88箇所歩き遍路(第二回ーその十) 第十日目(五月十七日) (八十一番白峯寺から八十三一宮寺まで 徒歩距離27.4km 天然温泉きららで一泊) 今日は涅槃の道場の三大難所の一つある白峯寺越えの「遍路ころがし」を行う。 今朝のテレビでは午後八十%の確率で雨降りとの事、出来るだけ早く進みたい。五人の遍路客は五時四十分に一緒に食事をとる。 六時十五分一番若い三十代の僧侶風の男性がタクシーで出発。つづいて小生が六時二十分に宿を出発する。 最初の2kmは山側に向かって直線にゆるやかな上りであった。そこから1.5kmで高低差200mの「遍路ころがし」に入った。杉樹林 の急坂道を息を切らせながら登る。 時々見晴らしの良い所で小休止し、国分寺市街地や溜め池等の風景を眺めて気晴らしをした。 一時間程登って一本松の車道に出て、リュックを下ろして一休みし、お茶飲む。そこへ車道をタクシーが下りて来て通り過ぎてゆく。良く 見るとタクシーで出発した三十代の男性であった。多分白峯寺を打ち終わって根香寺へ向かう途中と思われる。 ここから白峯寺参拝自動車道を尾根づたいに静かな緑の樹林の中を白峯寺に向かって進む。途中で同宿の北海道の五十代の男性 に追い越された。 この人は走る様な速さで進むため同一歩調はとれず先に行く様お願いした。この二人以外は行き交う人はいない。鶯の鳴き声が静寂 な中にこだまする。 五十分ほど歩き八十一番白峯寺に着く。 白峯寺は五色台(白峯、黒峯、紅峯、青峯、黄峯の五峯)の一つの白峯山の中腹にあり、七棟門を入って石段を上がり、水屋、鐘楼 があり、又石段を上がって本堂、大師堂となる。 白峰寺本堂と大師堂 そこを参拝した。白峯寺は山の中の寺で誰一人いない厳粛な中での般若心経の読経は不思議に心が安らぎを覚えた。 白峯寺から八十二番根香寺への遍路道は標高400m前後の大雑樹林の中を落葉を踏みしめながら一人旅。 時々カッコウ、ウグイス等の小鳥の声を聞きながら極楽歩きの感じがする。日陰で気温も丁度よく静かな樹林の中の柔らかい土道歩き である。 3.5km行くと車道に出る。足尾明神の入口で六人の部落の人達の接待を受ける。大きな机に菓子や飲み物を沢山載せ椅子に座っ て歩き遍路者が来るのを待っている。 小生が通ると「寄って休んでください。接待させて下さい」と優しい笑顔で呼びかけて下さる。早速寄らせてもらい。美味しいジュースとお 菓子を頂く。二十分程四方山話をしてお別れした。別れ際にまた五ヶのお菓子の接待を受けた。 それから二十分ほど歩き八十一番根香寺に着く。 山門を入って石段を登り鐘楼、大師堂さらに石段を上がって所に三万体の観音様が並ぶ回廊を通って本堂に至る。 根香寺山門 また境内には開基の植えたと言われている樹齢千六百年の欅の木もあった。 参拝を済ませた所に子供四人を連れた女親六人のグループ団に出会った。母親達は一生懸命に参拝作法、読経の仕方を教えている のを見て大変感心した。先程接待を受けた菓子を子供達に接待したところ大変喜ばれた。 五色台のみかん園の横より参拝用車道を高松市の市街地に向けて下り、二時間で平地の市街地に入る。最初は歩き遍路マークに沿 って進んでいたが何時の間にか見失ってしまったが地図を雨カバーで覆ったリュックザックに入れてある為、見る事が出来ず、車道の道 路標識に従って一宮寺の方向の矢印を探して移動した。 そのうちに現在位置と一宮寺の関係が分からなくなってしまった。 一時間程無駄な時間を消費してしまった。そこで意を決して、うどん屋に入り昼食を取りながら現在位置と一宮寺の関係を地図を見なが ら店員に確認した。昼食後三十分で一宮寺に到着した。 一宮寺山門 一宮寺は市街地の寺なるも雨のせいか参拝客は少なく雨具を付けたまま参拝を済ませ、今日の宿「天然温泉きらら」に入った。 (常陸国住人後記) 崇徳天皇に関係する神社などは、小生の下記をご覧下さい。 四国を旅して(その2) 2のその九 へ 2のその十一 へ |
白峯寺(しろみねじ)綾松山 洞林院、真言宗御室派、本尊:千手観音菩薩 ご詠歌:霜さむく 露白妙の 寺のうち 御名を称ふる 法の声々 寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、衆生救済の請願をした。円珍(智証大師)が貞観2年(860年)に 白峯大権現の神託を受けて千手観世音菩薩を霊木に刻み安置したという。 後に、長寛2年(1164年)崇徳天皇が讃岐流刑地で没した際に、慰霊のために陵墓近くに頓証寺が建立され、これが現在の白峯寺 になったとされる 根香寺(ねごろじ)青峰山 千手院 天台宗単立、本尊:千手観音。 ご詠歌:よひのまの たへふる露の 消えぬれば あとこそかねの 勤行の声 寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年〜824年)に花蔵院を創建し、五大明王を祀ったという。その後、円珍(智証大 師)が天長9年(832年)に千手観音を祀り千手院を創建し、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという。 戦国時代には兵火にあい衰微し、高松藩初代藩主松平頼重が再興した。 江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した 。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。 現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。 一宮寺(いちのみやじ)神毫山大宝院、真言宗御室派、本尊:聖観世音菩薩 讃岐国一宮の田村神社に隣接する。 ご詠歌:讃岐一 宮の御前に 仰ぎ来て 神の心を 誰かしらいふ 寺伝によれば、義淵により大宝年間(701年〜704年)に大宝院として創建され、後に行基が一宮寺と改めたという。その後大同年間( 806年〜810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し聖観世音菩薩像を刻んで本尊として安置したと伝えられる。 江戸時代までは隣接する讃岐一宮である田村神社と同一視・混同されていたが、延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼 常によって分割され、現在に至っている。 |
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