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四国88箇所歩き遍路(第二回目ーその十一)

第十一日目(五月十八日)

(八十四番屋島寺から八十六番志度寺まで 徒歩距離 26.1km いしや旅館に一泊)

 

 今日は最初に高松の巨大市街地を13.6km歩く事から始まる。

 朝食抜きで朝六時十分「天然温泉きらら」を出発。県道百九十二号を海に向かって一直線に下り高松自動車道の高架を潜り御坊川  に突き当たりる今度は御坊川に沿って歩き遍路道を一貫して進む。

 琴電三条駅を過ぎて住宅地を歩いていると庭の掃除をしていた婦人が小生の姿を見ると急いで家の中に入り、二、三分してから「お遍 路さん接待させて下さい。」と駆けてくる女性がいた。

 見ると先程の婦人で優しい言葉で「おはよう御座います。お荷物になると思いますが接待させて下さい。」といいながら缶ジュースと二つ の交通安全お守りを下さった。

 合掌して受け取ると「無事に決願される事をお祈りします。」と言われ心から感謝しお別れし歩みを進めた。

 出発時刻では人通りが少なかったがJR高徳線、琴電長尾線の踏み切りを渡る頃には高松市の中心街に入り八時もすぎているので通 勤、通学者や車両で大混雑となってきた。

 国道十一号に当ると国道に沿って進み諸田川、春日川、新川の三つの橋を渡って宮脇書店の角で屋島寺参道に入る。住宅地を通 り屋島寺登り口に到着する。

 ここで一休みしていると一昨日の宿「えびすや旅館」で同宿した北海道の健脚者と一緒になる。

 彼と残り1kmで高低差280mの急坂の舗装道路を必死で登る。汗が噴出し、上衣がびしょ濡れになりながら二十五分かかり九時十五 分に屋島寺山門に到着。15.6kmを歩いた事になる。

屋島寺東門

 八十四番屋島寺は鎌倉後期に建立された入り母屋造りの本堂、その脇には蓑山明神熊野権現があり、一段下って大師堂がある、 屋島と言えば源平合戦の古戦場として有名である。
 西天門より境外に出て喫茶店に入り、朝食のうどんを食べながら高松市街地か  ら壇ノ浦の古戦場を含めた瀬戸内海の風景を堪能し た。

屋島寺からの壇ノ浦古戦場の展望

 次の5.4km先の八十五番八栗寺義経が血まみれの刀を洗って真っ赤に染まったと言う血の池の横を通り、高低差250mの急坂 を金剛杖でバランスを取りながら下った。

 それから高橋を渡り3km平地を歩くと八栗ケーブルの登り駅に着く。

 ここから五剣山に登って行くと中腹で八栗寺に着く。八栗寺の寺名の縁起は弘法大師が芽の出るはずの無い八つの焼き栗を願掛け して植えた所、芽が出てきたと言うのが由来である。

     

八栗寺大師堂、多宝塔                            八栗寺のミニ石仏群  

 次に6.7km先の八十八番志度寺へは五剣山の稜線を県道百四十五号線に沿って下り、国道十一号との交差地点より国道十一号 を志度寺に向かって進むと志度寺に着く。

約二時間灼熱の道路を歩き十四時二十分に着いたことになる。

志度寺には飛鳥時代の豪族の藤原不比等と海女の悲哀伝説が有名である。また鎌倉時代運慶作の仁王が収まっている山門、五重塔、太鼓橋も見所である。
参拝の為、本堂に行く
本堂の前庭で山伏行者十人と僧侶二人で柴燈護摩の行事を実施中で有った。

多数の参観者で賑わっていた。参拝終了後、志度町出身の江戸時代の発明家平賀源内館を見学したく訪れるも、休館日で残念で有った。

その後、志度の町に出て食堂に入り、十四時半なるも昼食を食べてから今日の宿「いしや旅館」に入る。

2のその十 へ       2のその十二  
 


屋島寺
(やしまじ)南面山 千光院、真言宗御室派、本尊:十一面観音菩薩

ご詠歌:梓弓 屋島の寺に 詣でつつ 祈りをかけて 勇むもののふ

 

 寺伝によれば、律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)に当地を訪れて開創したという。のち弟子の恵雲師がこの地に堂 宇 を建て初代の住職となった。  弘仁6(815)この地を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により 北嶺にあった伽藍を南嶺に移し、  十一面観音菩薩像を刻んで本尊と し第84番の霊場に定めた。その後戦乱によって衰退したが、歴代の藩主によって修榎 され現在に 至った。

 

八栗寺(やくりじ)、五剣山 観自在院、真言宗大覚寺派、本尊:聖観音菩薩

ご詠歌:煩悩を 胸の智火にて やくりをば 修行者ならでは 誰か知るべき

 

 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地で あることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。

 

志度寺(しどじ)補陀洛山清浄光院、真言宗善通寺派

ご詠歌:いざさらば 今宵はここに しどの寺 祈りの声を 耳に触れつつ

 

 本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を尼凡薗子が草庵へ持ち帰り安置し、そののち霊木は本尊(十一面観音)として彫ら れ、堂宇が建立された。創建は推古天皇33年(626年)とされ、天武天皇10年(681年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」 として名づけた。また、持統天皇76年(693年)には藤原房前行基とともに堂宇を建立したと伝えている。

 室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、そののち戦乱により寺院は荒廃する。藤原氏末裔の生駒親正によ  る支援などを経てのち、寛文10年(1671年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興された。 

 謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の 『花上野誉の石碑』(志渡寺の段)などの舞台にもなっている。

 

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