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四国88箇所歩き遍路(第二回ーその十二) 第十二日目(五月十九日) (八十七番長尾寺から八十八番大窪寺まで。徒歩距離 22.1km ビジネスホテルビナスに一泊) 今日は結願寺の八十八番大窪寺までの最終行程である。朝六時五十分宿を出発。志度寺の山門の前を左折し、内陸方面へ県道五号を3km程進む。 志度寺山門 人通りが少なかったが朝七時を過ぎると小学生の集団登校に合う。子供たちは皆元気で「おはよう御座います」と笑顔で挨拶しくれ、元気付けられる。そこから歩 き遍路道に入り、小さな部落を幾つか過ぎ、大きな部落に着くと長尾寺があった。 八十七番長尾寺は小さいながら清楚な寺で義経の愛妻の静御前が剃髪した寺と言われ、大きな楠の木も見所である。 志度寺からここまで7kmで一時間四十五分歩いた事になる。 次の結願寺の八十八番大窪寺に向けて鴨部川に沿って歩き遍路道を進む。 梅カ畑のバス停を過ぎ、前山へんろ交流センターに寄って最後の「遍路ころがし」の歩行ルートを確認した。 大窪寺へのルートは二つあり、一つは交流センターより距離8.2kmで標高770mの女体山越えである。 もう一つは旧遍路道ルートで距離10.2kmで標高400m前後の三つの峠越えである。 交流センター長に、これから大窪寺発十三時三十分の帰りのバスに乗るためにはどちらのルートを勧めるか質問したら、センター長は即座に「女体山ルートでは絶対間に合わない。 旧遍路道ルートであれば間に合う可能性があるので旧遍路ルートを勧める。」との返事であった そこで旧遍路道ルートに決めた。ここには四国八十八カ寺の遍路に関する歴史や資料が沢山展示されていたが見学時間がとれず直ぐ出発した。 センター長より四国歩き遍路の完走証明書とバッチを頂いた。標高四百十mの相草峠のつづら折の急坂をあえぎながら登り、そこから峰に沿い樹林の中を進み、花折古道を通る。 また小鳥の鳴き声を聞きながら進むと五匹の野猿に出合った。車道なるもこの一時間は車も人にも出合わない静かな時間であった。 相草公民館から県道三号に出て、自動車の往来が激しくなり、その横の歩道を歩き二つの山越えをし、長尾寺から15.1kmを三時間三十分歩き大窪寺山門に着いた。 大窪寺山門 山門で合掌一礼し石段を上がり本堂、大師堂に参拝作法に従い結願のお参りを行い、納経所で朱印と墨書を頂き結願が出来た。 大窪寺本堂 帰りのバスの出発時間までには五十分の余裕があったのでバス停前の食堂に入ると「えびすや旅館」で同宿した広島の人と一緒になり、二人でビールで乾杯し無事完走した事を祝った。 彼は五十一日間で完全完走である。帰りは二人で一緒に路線バスで志度駅まで行き、志度駅からJR四国の普通列車で高松駅まで移動し、ここで別れ、小生は帰りの航空券を購入後今日の宿「ビジネスホテルビナス」に入る。 第十二日目 (五月二十日) (高松から日立に移動) 高松から日本航空で羽田へ、羽田から日立へ高速バスで移動し、十七時三十五分到着し無事自宅に帰る。 (常陸国住人後記) |
長尾寺(ながおじ)補陀洛山観音院、天台宗、本尊:聖観世音菩薩。 ご詠歌:あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺 秋の夜すがら 御名を唱えて 寺伝によれば天平11年(739年)、行基が当地で霊感を得て聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされる。 弘法大師(空海)が渡唐前、当地に滞在し、年頭7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1 月7日の「福奪い」として今に伝わっている。 天長2年(825年)、唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。幾度かの兵火により堂宇は失われたが、その都度歴代藩主 によって再建されている。 なお、静御前が源義経と別れた後、母の磯禅師と共に当寺を訪れ、得度したとの言い伝えもある。 大窪寺(おおくぼじ)医王山、遍照光院(へんしょうこういん)真言宗大覚寺派、本尊:薬師如来。 納経印は「結願所」となっている。本寺では結願証明書(賞状)を有料で書いてもらうことができる。 ご詠歌:南無薬師 諸病なかれと 願いつつ 詣れる人は おおくぼの寺
大窪寺山門 本堂 寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年- 724年)に行基が開基し、弘仁年間(810 - 823)に空海(弘法大師)が奥の院の岩窟 で虚空蔵求聞持法を修し、薬師如来を刻んで安置したとされている。 |
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