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海外旅行記 

ベトナム(3)中部

 

2.中部

2.1フエ

1)王宮料理晩餐会で

さて、ハノイから飛行機に乗り、フエ空港に到着、直ちにホテルへ直行した。時間も夜7時を回っていたのですぐに食事と思っていたら、これから宮廷料理を御馳走しますから、その前に王様、王妃様、侍従の方々を決めて下さいと云う。そしたら、くじ引きで王様の役が私に当たってしまった。私は単身者なので誰か御夫婦の方に代って戴けるようお願いしたが、誰も代り手が無く、結局王様の役を引き受けることになった。



王様に扮して

その結果がこれである。王宮服の王様の衣装を着せられたのである。同様に王妃の衣装を着た人様の奥さまと、王宮服を着た侍従を従えて控室からホテルロビーの前を通って晩餐会場まで行進だ。
ホテル内の大勢の宿泊客が見ている中を恥ずかしかったが無事に晩餐会場に到着。王様と王妃の食事の席は一段高い所に設けてあった。これには参り、人様の奥さまと一緒に座ることは出来ないので遠慮させて戴き、皆様方と一緒の席に着いた。勿論王様の衣装は脱いだ。とんだハプニングであった。

 

宮廷料理

でも料理はとても素晴らしかった。なお、王様の写真は写真屋が撮ったもので、私共本人には無料で貰えるのだと思っていたら、有料だと云う。抜け目のない商魂である。

2)王宮

フエはベトナム最後の王朝、阮朝(1802〜1945)の都・王宮があった町で、王宮はアメリカ軍の爆撃で70%が破壊された。しかし、その一部、王宮門は破壊を免れた。



破壊を免れた王宮門

現在見られる大和殿1968年に再建されたものである。王宮の広さは700×700m位だろうか。王宮としては小さい方である。



大和殿


拡大した大和殿の屋根飾り


大和殿の屋根の上の飾りが素晴らしい。
中央の徳利には観音様の水が入っており、これを飲むことによって皆幸せになるのだと云う。

3)ティエンムー寺

1601年に建立されたものでフエでは最も古い寺である。

仏塔

ここには七層八角の仏塔があり、各層には仏像が安置されている。塔の名はトゥニャン(慈悲)で、幸福と天の恵みを意味している。更に、この寺では1968年、時の住職がベトナム戦争に抗議して焼身自殺したことで有名である。

その時、サイゴンまで乗って行った車が展示してあった。   

  

この寺を後にする時、若い坊さんに会った。
左は修業中というより見習い中と云った方がいいかも知れない。
 右は休暇中の修業僧だろうか。なかなか良い顔をしていた。 

4)カイディン廟

この廟はフエの町の郊外にあって、阮朝第12代皇帝啓定帝(カイディン帝)の墓所である。1920年の崩御から6年後に12年かけて造られ、フランスのベルサイユ宮殿を真似て造ったという。あまり似ていないが? でも、フランス風の芸術的特徴を持った豪華な建造物という。

これはその廟に行く途中の階段と上部正面にある八角堂を撮ったものである。
八角堂には皇帝の偉業を称えた石堂がある。階段の両側の龍の石像もまた凝った造りで素晴らしい。
皇帝の廟は八角堂の奥の階段を登りきった所にある



この廟の壁の飾りに面白いものがあった。

これはそれを示したものである。何が面白いかお解りでしょうか。

飾りの主な材料は磁器を砕いて嵌め込んだものだが、梅の木の幹だけは違います。

ビール瓶の破片で出来ています。

それも日本製のビール瓶を砕いて嵌め込んだものです。

ビール瓶がこんなに貴重なものであることを初めて知りました。










2.2 ホイアン

ホイアンはチャンパ王国の時代、古くから中継貿易都市として栄え、16〜17世紀にはアユタヤ、マニラと並んで日本人町も造られた。最盛期には1,000人以上の日本人が住んでいたと云われる。今は来遠橋(日本橋)日本人墓地にその面影を残している。こうしたホイアンはフエから海岸線を南東に約100km、ハイヴァン峠を越えた先にある。

ホイアンの賑やかの通りはチャンフー通りで、その夜祭は綺麗だった。

夫々の店が灯をともして幻想的な雰囲気を醸し出している。これはその1例を示したものである。

街の一角には若者が集まって音楽を奏でて楽しんでいる



これは昼間の来遠橋(日本橋)を写したもので、1593年に造られた屋根付きの凄く頑丈な橋で、中程にお寺がある。
当時ホイアンに住んでいた日本人によって作られたという。観光の名所の一つになっている。
昔、この橋の東側は日本人町、西側は中国人町であったと云われているが、その境界は定かでない。
年代物の家が多く、古いもので200〜300年前の家もある。古いものは何故か日本建築風の感がする造りになっている。


日本人谷弥次郎兵衛の墓である。
彼は日本の鎖国政策により帰国を余議なくされたが、ホイアンに残した恋人を諦めきれず、日本に帰らないでこの地に骨を埋めたのだそうだ。1647年にこの地で亡くなっている。

2.3 ミーソン

ホイアンの南西約40kmの所にあって、チャンパ王国のシバ神を祀った聖地の遺跡である。遺跡は四方を山で囲まれていて、高温多湿の所にある。遺跡の多くは7〜14世紀のものであるが、ベトナム戦争でベトナム軍が基地として使用したため、アメリカ軍の爆撃を受けてかなり破壊されている。4世紀頃から木造の祠堂が建てられたが、それは朽ちてしまっている。7世紀頃からレンガで造るようになったのでそれが残っている。

ここに見られるようにメンテナンスはあまりされていない様で、草やコケが生えたままになっている。

こうした建物の屋根の造りが面白い。これはその造りを写したものである。屋根は古くて崩れかかっているように見えるが、アーチ状にしないで積み上げたレンガの先がすぼまるようになっている。


似たような造りは中米、ベリーズのカルペチ遺跡でも見られた。

参考までにそれを示した。ここでは石を使っているが、ミーソンと同様に先がすぼまるように積み上げている。
但し、石の間は石膏のような接着剤を使っており、最上部は石を平らに置いてある。技術的にもミーソンのものより上である。しかし、両者共にこの頃はアーチ状にする技術が無かったものと考えられる。遠く離れた所で石を積んで屋根にするにはどうしたら良いか随分考えたことであろう。それが同じような考えに落ち着くのだから面白い。

遺跡の見学が終って帰りのバスを待っている時、おじさんが鋸で木を切っているのを見かけた。鋸と、その切り方が面白いので写真に撮っておいた。土地が変わると道具も使い方も様々ですね。


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