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海外旅行記(6)

ベトナム4 南部

3.南部

3.1 ホー・チミン市

昔のサイゴン市である。歴史の項で述べたように、1975年4月30日のサイゴン陥落でベトナム戦が終了した所である。
人口約640万人、ベトナム最大の都市で、最大の商業都市でもある。仕事を求めて各地から、特に、中部地方から来る人が多いという。人口の25%は中国人と云われている。
市場経済を中心とした自由競争で町は活気づいている。人口は増加の一途をたどっている。街中の道路の混雑、バイクの騒音、電柱にめちゃくちゃに張り巡らされたな多量の通信線はハノイに増して凄い。

1)統一会堂

ホー・チミン市で最も名が知れているのは、1975年ベトナム戦終結時にベトナム軍の戦車が突っ込んだという統一会堂(旧大統領官邸)である。南ベトナム軍が使用していた宮殿は「ロドン宮殿」或いは「独立宮殿」と呼ばれた木造造りであったが、1962年の北ベトナム軍の空爆で破壊された。現在のものは1966年に南ベトナム軍の手で建造されたものを、現在の政府が修復したものである。

統一会堂

内部の写真は割愛するが、一部を除いて公開されており、会議室、宴会室、応接室など全て豪華である。
また地下には作戦室、無線機室などのかなり広いスペースがあり、脱出用のヘリコプターも用意されている。

2)アオザイ

ベトナムの女性の衣服として「アオザイ」と云うものがある。アオザイの名は知らなくても、写真を見れば“ああ、あれか”と気が付くであろう。ベトナムに来てアオザイ姿のお嬢さんの写真を撮らない訳にはいかないと思い、チャンスを覗っていた。

ホー・チミン市郊外のレストランで食事した後、レストラン前の店を見ていたら偶然アオザイを着た御嬢さんに出会った。“一緒に写させてもらって良いか”と聞いたら“OK”である。早速写させてもらった。
青いアオザイが綺麗であった。オット、顔の方も綺麗でした。

3.2 カントー

カントーはホー・チミン市から南東に直線距離で約130km、バスと船を乗り継いで約5時間の所にあるメコンデルタ地区最大の商業都市である。交通の要所でもある。人口は100万人程である。

カントーの名所は何と言っても水上マーケットである。朝早くから各地で収穫された野菜、果物などを満載した船が集まって来て、約1kmに亘って水上マーケットが出来る。我々は朝食前に、ホテルの前から船をチャータ—して約30分かけて水上マーケットが出来る所に向かった。
目的地は凄い混雑だ。お互いに売り買いしている人達の船、その間に小売りの人達の船が割ってはいって買う人達、それらが暗黙のうちに船同士がぶつかることもなく進行している
。我々が市場で想像するようなセリのような騒々しさはない。お互いに売買の値段が一致すれば商談が成立するみたいだ。

水上マーケット



これは卸で買った果物を我々の所に売りに来ている船である。

船の中には女の子もいて商売に一役買っている。

特に、小さい子供が買ってくれと云うと、可哀そうに思って買ってしまうようだ。

ここに観光に来ているのは殆ど外国人なので、随分売れているようであった。














水上マーケットに行った帰りに陸上のマーケットにも行って見た。売り場は屋内外に散らばっていてその数も多い。屋外の店舗は多くないが、道路上の販売が多い。付近の農村から野菜、果物、この日の朝取れた川魚などを持ち寄って来て売っているのであろう。日本のように“買った、買った、安いよ”などと云わないで大人しく商品の前に座っているので、人が多い割には静かである。



 ここの屋内の売り場でカエルを売っているのに出くわした。
珍しかったので写真に撮った


面白いのは蛙そのものを裏返して並べて売っていることと、皮を剥いでそれを開いたものを売っていることである。

開いたものはそのまま焼いて食べるのであろうか。更に面白いのは、売り手のおばちゃんがその蛙の商品の前で朝食をしていることである。

その行儀の悪さと、開いた蛙のまえで食事が出来る無神経さに吹き出したくなってしまった。

でも、彼女等は生活を支えるために一生懸命なのであろう。

笑ってはいけません。



3.3 クチ

ホー・チミン市から北西に約65km、ここの農村地帯はベトナム戦争時、解放戦線の拠点があった所である。

アメリカ軍の度重なる空爆で解放戦線軍は地下トンネルを掘ってゲリラ戦を続けた。地下トンネルは全長250kmにも及んでいる。
アメリカ軍が最後まで攻略できなかった大きな理由は、その地下構造が大変複雑でトンネル内の構造すら理解できなかったためと云われている。

水攻めにしても、その水はメコン川に抜けてしまうので効果が無かったと云われる。私もそのトンネルの一部に入ってみたが、通路は狭く、アメリカ兵の大きな体は、しかも武装した兵が到底入れる所ではないことが解る。
小柄な解放戦線軍兵士は裸で、銃を1本持っただけで行き来していたのである。

しかも、トンネル内の要所には広い部屋が作られており、作戦室、会議室、食堂などの部屋や兵器、爆弾などを製造する部屋などが構築されている。兵器や、爆弾は敵から分捕ったもので作ったりしている。非常に巧妙である。

これはそのトンネルの出入り口の1例を示したもので、かなり狭い。

    

落とし穴の例である。これはそのいくつかの例を纏めて展示してあった。
こうした落とし穴には頑丈な、鋭い棘鉄が上向きに、あるいは斜め上向きに配置されている。
落ちたら大怪我か死亡である。アメリカ兵はさぞ怖かったであろう。

枯葉剤を撒く米軍機

枯れた森林

 アメリカ軍用機が森林に枯葉剤を散布している写真と、散布後の山火事にでもあったかのような森林の跡である。この写真は戦争証跡博物館に展示していたものを写したものである。この写真からも枯れ葉剤の猛毒性を類推出来よう。

そう云えば、ベトナム旅行中、小鳥や昆虫を見た記憶が非常に少なかった。これも枯れ葉剤の後遺症なのだろうか。枯れ葉剤を受けた弱小生物は、種が絶滅させられているのではないだろうか。
クチの見学者は皆真剣に、しかも悲しそうにガイドの説明に耳をそばだてていた。

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  枯葉剤
   
2.4ジクロロフェノキシ酢酸と2.4.5トリクロロフェノキシ酢酸の混合剤で、
副産物とし
て猛毒の2.3.7.8テトラクロロジベンゾ、1.4−ジオキシンも高濃度で含んでいる。

(後記)月岡さんは化学専攻でした。

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