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88箇所歩き遍路(第一回目ーその一)

第一日目(四月十五日)
(日立から三番金泉寺まで、徒歩距離5.4㎞ばんどう旅館に一泊)

朝四時十分に霧雨降る中を自宅を出発、娘友紀子の車で日立駅バス停まで送ってもらう。真夜中に五人の客を乗せ、高速バスは羽田空港へ向け日立を出発した。昨夜は全く知らない四国の旅で興奮し、良く眠れなかった。
車中うとうとしていると既に土浦市辺りに来ていて雨も上がり、富士山が良く見える。
羽田を十時二十分にたち、徳島空港には予定通りに到着し、リムジンバス徳島駅へ、そこからJR高徳線で十三時十八分に坂東駅に到着した。

ここが一番霊山寺の駅だが寂しい無人駅で、小生以外遍路参拝客らしき人が一人降り十分程歩いて霊山寺に到着。
まず、最初に霊山寺の遍路用品販売店に行き、計画書に従い、現地で購入予定の白衣、金剛杖、菅笠、輪袈裟、数珠、経本、納経帳、納め札、持ち鈴、線香、ロウソク、頭陀袋を一万五千四百円で購入した。また、販売店のおばさんより参拝手順書を頂き参拝の仕方を指導頂いた。これは事前に調査しておいたものと全く一致した。

既に十四時三十分を過ぎていたので急いで遍路姿に着替え納め札にも参拝日、住所、氏名を六枚記入し、霊山寺の山門へ向かった。山門では合掌一礼し、水屋で手を清め、口注ぎをする。次に鐘楼堂に移り鐘を撞き、本堂に移る。本堂では、まず、線香を上げ、ロウソクを灯し、納め札とお賽銭を納め、始めて読経に入る。午後であったのて団体参拝客もなく、近くには誰もいないが小さな声でお経を上げた。同じ要領で太子堂にも参拝し、山門で一礼し、これで霊山寺の参拝は終了した。

     

   霊山寺山門                              本堂

納経書きは既に納経書購入時点で記載されている為省略。参拝客が少なく十五分程で終了し、1.2㎞先の二番極楽寺へ急ぐ。
道路は国道12線一本道であり、車も少なく、二十分程で到着した。
極楽寺霊山寺と異なり境内が比較的広く、ゆったりとした全体配置である。今度は意識して大きな声で読経を行った。つっかえ、つっかえのお経でスムーズな読経とは言えない。

次に2.5㎞先の三番金泉寺である。一本道の遍路道を三十分ほどで到着した。両側に白壁が配置された朱塗りの山門に合掌一礼し、境内には入る。
この寺は中世以降「阿波国の学問寺」と言われ栄えた寺である。太子堂の横に地蔵堂があるが、ここで弘法太子「黄金井戸」を発見し、寺名の起源となったと言われる。この井戸を覗いて自分の顔が映れば長寿の御利益があると言われている。迷信と思うが小生も覗いて見ると良く顔が映っていた。



金泉寺本堂

気持ち良く作法に従い参拝をすませ、本日の宿「ばんどう旅館」に向かう。十六時三十分に宿に到着した。同宿者は坂東駅で一緒であった七十二才の東京の人であった。宿は喫茶店も経営していて夕食は喫茶店で食べた。食事の場所が同宿者と離れていた為、話す機会もなく個室に戻り、明日に向けての準備にかかった。明日の宿泊先は計画通り「旅館八幡」に携帯電話で確認し、予約出来ホットした。

明日は七つの寺を参拝予定である。十四枚の納め札が必要である。この納め札には参拝日、小生の住所、氏名の他に裏面に願いを書く習わしになっている。小生は裏面に家内の供養として家内の戒名及び生前小生がお世話になった十名の皆さんの戒名を二名ずつ書く事にした。
従って、為供養、教真院釈尼施恵及びもう一名の戒名を記載する事にした。この作業は意外に時間がかかります。風呂に入り明日に向け九時には消燈し、熟睡した。 

                            ルートの設定 へ       その二



常陸国住人より

 (寺の由緒、丸山さんの記述にある場所の写真などを纏めて記載します)(Wikipediaなどを引用しました)

第一番:霊山寺(りょうぜんじ)竺和山(じくわさん)一乗院。高野山真言宗、本尊:釈迦如来

ご詠歌霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり 

奈良時代、天平年間聖武天皇の勅願により、行基によって開創。

弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。本尊の釈迦如来空海が刻んだもので左手に玉を持った坐像である。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間、曽我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失った。本堂多宝塔以外は近年の再建である。

第一番ということで遍路を始めようとする人は本寺を起点とする場合が多いため、巡礼装束である白衣や金剛杖、菅笠、納経帳、掛け軸など様々な巡礼用品を揃えることができる売店があり、遍路初心者には遍路作法なども伝授している。

第二番:極楽寺(ごくらくじ)日照山(にっしょうざん)無量寿院。高野山真言宗、本尊:阿弥陀如来。

ご詠歌:極楽の 弥陀の浄土へ 生きたくば 南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ

寺伝によれば、奈良時代(710784)、行基の開基という。

弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。

天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治2年(1659年)に阿波藩主によって再建される。

   

山門                              本堂

 

第三番:金泉寺(こんせんじ)亀光山(きこうざん)釈迦院、本尊:釈迦如来

ご詠歌:極楽の たからの池を おもえただ こがねの泉 澄みたたえたる

寺伝によれば天平年間(729- 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したという。

弘仁年間(810- 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたという。

亀山法皇(天皇在位12591274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、源平盛衰記には、元暦2(1185)源義経が屋島に向かう途中、本寺に立ち寄ったとの記載がある。

1582年(天正10年)には長曽我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失たが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定される。

  

山門                            本堂



大師堂

 

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