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88箇所歩き遍路(第一回目ーその一) 第一日目(四月十五日) 朝四時十分に霧雨降る中を自宅を出発、娘友紀子の車で日立駅バス停まで送ってもらう。真夜中に五人の客を乗せ、高速バスは羽田空港へ向け日立を出発した。昨夜は全く知らない四国の旅で興奮し、良く眠れなかった。 霊山寺山門 本堂 納経書きは既に納経書購入時点で記載されている為省略。参拝客が少なく十五分程で終了し、1.2㎞先の二番極楽寺へ急ぐ。 金泉寺本堂 気持ち良く作法に従い参拝をすませ、本日の宿「ばんどう旅館」に向かう。十六時三十分に宿に到着した。同宿者は坂東駅で一緒であった七十二才の東京の人であった。宿は喫茶店も経営していて夕食は喫茶店で食べた。食事の場所が同宿者と離れていた為、話す機会もなく個室に戻り、明日に向けての準備にかかった。明日の宿泊先は計画通り「旅館八幡」に携帯電話で確認し、予約出来ホットした。 |
常陸国住人より (寺の由緒、丸山さんの記述にある場所の写真などを纏めて記載します)(Wikipediaなどを引用しました) 第一番:霊山寺(りょうぜんじ)竺和山(じくわさん)一乗院。高野山真言宗、本尊:釈迦如来 ご詠歌:霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり 奈良時代、天平年間聖武天皇の勅願により、行基によって開創。 弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。本尊の釈迦如来は空海が刻んだもので左手に玉を持った坐像である。 室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間、長曽我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失った。本堂と多宝塔以外は近年の再建である。 第一番ということで遍路を始めようとする人は本寺を起点とする場合が多いため、巡礼装束である白衣や金剛杖、菅笠、納経帳、掛け軸など様々な巡礼用品を揃えることができる売店があり、遍路初心者には遍路作法なども伝授している。 第二番:極楽寺(ごくらくじ)日照山(にっしょうざん)無量寿院。高野山真言宗、本尊:阿弥陀如来。 ご詠歌:極楽の 弥陀の浄土へ 生きたくば 南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ 寺伝によれば、奈良時代(710〜784)、行基の開基という。 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治2年(1659年)に阿波藩主によって再建される。 山門 本堂 第三番:金泉寺(こんせんじ)亀光山(きこうざん)釈迦院、本尊:釈迦如来 ご詠歌:極楽の たからの池を おもえただ こがねの泉 澄みたたえたる 寺伝によれば天平年間(729年- 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したという。 亀山法皇(天皇在位1259〜1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、源平盛衰記には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中、本寺に立ち寄ったとの記載がある。 1582年(天正10年)には長曽我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失たが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定される。 山門 本堂 大師堂 |
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