常陸国住人より
(寺の由緒、丸山さんの記述にある場所の写真などを纏めて記載します)(Wikipediaなどを引用しました)第四番:大日寺(だいにちじ):黒巌山(こくがんざん)遍照院、東寺真言宗、本尊:大日如来。
別名、黒谷寺。 ご詠歌:眺むれば 月白妙の 夜半なれやただ黒谷に 墨染めの袖 大日寺山門 本堂 寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して1寸8分の大日如来像を刻み、これを本尊として創建したと伝えられる。この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたところから黒巌山とし、本尊より大日寺と号したという。 荒廃と再興を繰り返したが、徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩の帰依がつよかったため宝暦(1751年- 1763年)頃には堂塔の大修理が行われた。
第五番:地蔵寺:無尽山荘厳院(しょうごんいん)、真言宗御室派、本尊:勝軍地蔵菩薩。 ご詠歌:六道の 能化の地蔵 大菩薩 導き給え この世のちの世 地蔵寺本堂 寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が自ら1寸8分(約5.5cm)の勝軍地蔵菩薩を刻み、本尊として開創したと伝えられる。
勝軍地蔵菩薩は甲冑(かっちゅう)を身にまとい馬にまたがる姿をしており、八十八箇所中で勝軍地蔵を本尊としているのは本寺だけである。 嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。 本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建された。
第六番:安楽寺(あんらくじ)温泉山、瑠璃光院、高野山真言宗、本尊:
薬師如来
。 ご詠歌:かりの世に 知行争う むやくなり 安楽国の 守護をのぞめよ 安楽寺山門 多宝塔 本堂 寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。 天正年間(1573年- 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658年- 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現在地に再建される。 宿坊のラジウム鉱泉入りの薬湯も有名である。 第七番:十楽寺(じゅうらくじ)光明山蓮華院、高野山真言宗、本尊:阿弥陀如来。 ご詠歌:人間の 八苦を早く 離れなば 到らんかたは 九品十楽 十楽寺本堂 寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し、楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。当初は現在地よりおよそ3km離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したものと推定されている。 阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし本尊のみは住職が背負って逃げたため無事であった。寛永12年(1635年)に現在地で再建された。 第八番:熊谷寺(くまたにじ)普明山真光院、高野山真言宗、本尊:千手観世音菩薩。 ご詠歌:薪とり 水くま谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため 熊谷寺山門 中門 本堂 弘仁6年(815年)空海(弘法大師)がこの付近で修行をしていた際、熊野権現が現れて1寸8分(約5.5cm)の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたと伝えられる。 昭和2年火災により本堂とともに弘法大師作と伝えられていた本尊もで焼失した。本堂は昭和15年に再建が開始されたが戦争により中断、昭和46年に全容が完成した 第九番:法輪寺(ほうりんじ)正覚山、菩提院、高野山真言宗、本尊:涅槃釈迦如来。
ご詠歌
:大乗の 誹謗もとがも ひるがえし転法輪の 縁とこそきけ 法輪寺本堂と大師堂 巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年- 1648年)に現在地に移転して再興され、現在の山号、寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に火災で全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。 第十番:切幡寺得度山、灌頂院(かんじょういん)高野山真言宗、本尊:千手観世音菩薩 ご詠歌:欲心を ただ一筋に 切幡寺 後の世までの 障りとぞなる 切幡寺本堂 多宝塔 寺伝によれば、修行中の
空海
(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。 空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。 |