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四国88箇所歩き遍路(第一回ーその二)

第二日目(四月二十一日)                             

(四番大日寺から十番切幡寺 徒歩距離23.6㎞旅館八幡に一泊)

 朝七時に朝食を食べ、七時十五分に同宿の東京の人より一足早く宿を出る。車道に沿って2㎞ほど進み徳島高速自動車道のガードの下を過ぎると歩き遍路の道標が現れる。歩き遍路者はへんろみち保存協力会篇の地図に従って歩くのが基本である。

道標には基本的に二種類あり、一番信頼のあるのは、へんろみち保存協力会が赤色の歩き遍路姿で行くべき方向を示した道標である。この赤色印の遍路マークに従い山道に入った。もう一つは建設省の道標である。

    

    

へんろみち保存協会の道標                     建設省の道標

畑道があったり、竹林の中を登ったり、部落の墓の中を通ったり、人の気配が全く感じられない静かな緑の中を鶯の声を聴きながら至福の一時を過しつつ小一時間5㎞程歩き四番大日寺に到着した。

       

大日寺への田舎道                              大日寺山門

山の奥にあるにも関わらず九時頃になると団体参拝客が二台のバスで訪れ、先達さんの指示に従い、本堂の前で線香を上げ、ロウソクを灯し、二十人程の人たちが五列に並び、先達さんの先導で読経中であった。この経唱はリズムカルで宗教的神秘さが感じられた。
小生も次の団体客の後に並び先達さんの先導に合わせ読経した。この時、後から追いかけて来た同宿の東京の七十二才の人に追い越された。中々の健脚者と見た。
急いで次の五番地蔵寺へ向け出発する。50m程進んだ所で金剛杖を忘れて来た事に気付き、急いで取りに帰った。お蔭様で大師堂の金剛杖立の中に残っていた。「急がば回れ」に気が付き、心を落ち着けて再出発。              

 地蔵寺へは奥の院の五百羅漢堂を通り裏側より石段を降りて入って行った。石段の登り口に山伏姿で尺八を吹いている人に出会った。周りの静かな雰囲気に尺八の響きは良く調和して気分が安らいできた。

六番安楽寺、七番十楽寺、八番熊谷寺と農村の部落や農道を通り、順調に参拝をすませて、既に十二時を過ぎてしまってお腹が空いてきた。ここで地図帳で今日の昼食場所と考えていた大和屋食堂を探し玄関へ向かった。しかし今日は休業の札が出ていてベルを鳴らすも返事なし。

やむ得ず2.4㎞先の九番法輪寺へ向かった。法輪寺の前には二軒のうどん屋があり、参拝をそこそこに、うどん屋に入ったが店員不在で二十分待っても帰ってこない。法輪寺の納経所職員に聞いても解決できず。このうどん屋には果物や土産品も販売しているが全くのんきな商売である。もう一つのうどん屋へ向かったがここも店員不在である。



法輪寺山門

やむなく3.8㎞先の十番切幡寺へ向かって歩いた。もう平地の田圃や畑の中を20㎞を越え歩き、足も大分疲れを感じてきた。切幡寺は大きな寺で50m程の門前街になっていた。
門前街の最初のうどん屋に入って「うどん出来ませんか」と訊ねたら「もう二時も過ぎているので店仕舞いを始めようと思っていた所だよ。では注文を受けて作りましょう。」と心良く受けて下さった。

盛りのうどんを美味しく頂きながら法輪寺前の二軒の不在うどん屋の話を不満気にすると、六十代の主人は笑いながら「ここは皆そんなもんだよ。十三時を過ぎて客がないと思うと店を開けて出かけてしまう事よく有るんだよ。」との事です。田舎の暢気な生活が感じられて文句の言葉も出ません。

 エネルギーを補給し、150m登る山頂にある切幡寺へ進んだ。五百三十三段の石段を息を切らしながら登り、広い境内に入ると本堂、その裏には寺名の縁起の「切幡観音像」大師堂があり、一段上に大塔がある。この大塔から見る眺めはすばらしい。

切幡寺大塔

今日最後の参拝は心を込めて行い。そこから今夜の宿の「旅館八幡」に急ぐ。十五時二十分に到着した。夕食は十八時である。

まだ十分時間あり。明日の宿の予約、納め札の記載を済ませ、ゆっくり風呂に入りたり、読経文の意味をもう一度確認したりして過ごす。
夕食は歩き遍路者四人一緒の机に座り、酒を飲みながら楽しい話に花が咲いた。一人はばんどう旅館で一緒の東京の七十二才の人で十五年間の山登りの経験があり、今日は午前中に十一番藤井寺まで打ち、旅館を取り消しをお願いしたが時間が遅い為、賠償金請求され、取り消しを止めたとの話である。やはり、健脚者であり、自分で二百六十枚の遍路地図を作成しこれを使い遍路しているとの事。
次の一人は松山市からきた三十代の男で歩き遍路は三回目で明日は遍路ころがしの途中で野宿をする予定との事である。
最後の一人は愛知県から来た五十代の男で歩き遍路ニ回目であり、最大距離で50㎞歩いたとの事。

何れにしろ皆小生より、健脚である。まず自分の体力に合ったペースで明日から歩く事を心掛けようと思って眠りに就いた。

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 常陸国住人より

 (寺の由緒、丸山さんの記述にある場所の写真などを纏めて記載します)(Wikipediaなどを引用しました)

第四番:大日寺(だいにちじ):黒巌山(こくがんざん)遍照院、東寺真言宗、本尊:大日如来。
別名、黒谷寺。

ご詠歌眺むれば 月白妙の 夜半なれやただ黒谷に 墨染めの袖

     

大日寺山門                          本堂

寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して18分の大日如来像を刻み、これを本尊として創建したと伝えられる。この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたところから黒巌山とし、本尊より大日寺と号したという。

荒廃と再興を繰り返したが、徳島藩5代藩主蜂須賀綱矩の帰依がつよかったため宝暦(1751- 1763年)頃には堂塔の大修理が行われた。


第五番:地蔵寺:無尽山荘厳院(しょうごんいん)、真言宗御室派、本尊:勝軍地蔵菩薩。

ご詠歌:六道の 能化の地蔵 大菩薩 導き給え この世のちの世

 

地蔵寺本堂

寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が自ら18分(約5.5cm)の勝軍地蔵菩薩を刻み、本尊として開創したと伝えられる。
勝軍地蔵菩薩は甲冑(かっちゅう)を身にまとい馬にまたがる姿をしており、八十八箇所中で勝軍地蔵を本尊としているのは本寺だけである。

嵯峨・淳和・仁明3代の天皇の帰依が篤かった。熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に27寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。

本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建された。


第六番:安楽寺(あんらくじ)温泉山、瑠璃光院、高野山真言宗、本尊: 薬師如来

ご詠歌:かりの世に 知行争う むやくなり 安楽国の 守護をのぞめよ

     

安楽寺山門                           多宝塔

本堂

寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。

天正年間(1573- 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658- 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現在地に再建される。

宿坊のラジウム鉱泉入りの薬湯も有名である。

 

第七番:十楽寺(じゅうらくじ)光明山蓮華院、高野山真言宗、本尊:阿弥陀如来。

ご詠歌:人間の 八苦を早く 離れなば 到らんかたは 九品十楽

 

十楽寺本堂

寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し、楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。当初は現在地よりおよそ3km離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したものと推定されている。

阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし本尊のみは住職が背負って逃げたため無事であった。寛永12年(1635年)に現在地で再建された。

 

第八番:熊谷寺(くまたにじ)普明山真光院、高野山真言宗、本尊:千手観世音菩薩。

ご詠歌:薪とり 水くま谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため

      

熊谷寺山門                               中門

本堂

弘仁6年(815年)空海(弘法大師)がこの付近で修行をしていた際、熊野権現が現れて18(5.5cm)の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたと伝えられる。

昭和2年火災により本堂とともに弘法大師作と伝えられていた本尊もで焼失した。本堂は昭和15年に再建が開始されたが戦争により中断、昭和46年に全容が完成した

 

第九番:法輪寺(ほうりんじ)正覚山、菩提院、高野山真言宗、本尊:涅槃釈迦如来。

ご詠歌 :大乗の 誹謗もとがも ひるがえし転法輪の 縁とこそきけ

 

法輪寺本堂と大師堂

巡錫中の空海(弘法大師)白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。

天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644- 1648年)に現在地に移転して再興され、現在の山号、寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に火災で全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。

 

第十番:切幡寺得度山、灌頂院(かんじょういん)高野山真言宗、本尊:千手観世音菩薩

ご詠歌欲心を ただ一筋に 切幡寺 後の世までの 障りとぞなる

     

切幡寺本堂                            多宝塔

寺伝によれば、修行中の 空海 (弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。

空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。

 

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