このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

88箇所歩き遍路(第一回—その三)

第三日目(四月十七日)

(十一番藤井寺から十三番大日寺まで 徒歩距離23.3㎞ かどや旅館で一泊)

 

四国歩き遍路の難所「遍路ころがし」と言う。これは文字通り「遍路さんが転がり落ちる程きつい。」と言う難所の事である。今日通過する予定の十一番藤井寺から十二番焼山寺の間は六大「遍路ころがし」の一つとガイドブックに紹介されている。

朝食を六時四十五分に食べて七時に宿を出発。阿波市の郊外を吉野川の流れに直角方向に進む。登校途中の小中学生に会う。皆、元気良く、「おはよう御座います。」と挨拶をしてくれる。

日立では、こちらから挨拶しても普通は無言で通り過ぎるが四国の子供達は良く教育されていると感心しながら吉野川を渡る。

吉野川にかかる橋

大きな善入寺島は野菜が栽培されており、この善入寺島の誰もいない農道を過ぎ、一時間三十分歩き十一番藤井寺に着く。寺名に由来する藤の花は四月の中旬の為、まだ咲いていなく残念であった。ここから「遍路ころがし」に入るわけであるが大変そうなので鴨島駅に戻り、バスを乗り継ぎ、神山町の寄居中より6.9㎞の短い「遍路ころがし」に変更する事にした。

鴨島駅で徳島バスの停留所を探していると、八十才前後の老人に出会い、一緒に話をしながら上鮎喰バス停まで行く。このおじいさんはバスを降りる時に「お接待です」と言いながら五百円頂いた。大変有り難く合掌して受領した。初めての接待を受けた。

上鮎喰で徳島バス神山線に乗り換え、十一時四十四分寄居中に到着。

ここから「遍路ころがし」に入るが十二番焼山寺までの往復の間に食事店やコンビ二がなく食料の購入が難しいと言われているので、まずコンビ二に入り、おむすびとお茶を買って、リュックに入れ、焼山寺に向け出発する。

前半の3.5㎞先の「なべいわ荘」までは高低差百mの緩い車道を歩き小休止し、昼食を頂く。ここからの3.6㎞で高低差四百六十mの登りが所謂「遍路ころがし」である。息を切らせながら時々小休止を入れ一時間三十分かけ、登る。

焼山寺への「遍路ころがし」

体中汗が噴出し、シャツ、白衣、ズボン全部びしょ濡れである。周りは殆ど杉林の中で5センチ前後の石ころが沢山ある整備されない道も多い。金剛杖の補助を借りながらバランスを取りながらの歩行は正に弘法大師の力を借りた同行二人の歩きである。
一時間半の間に行き逢う人はたった二人であった。境内は巨杉の中にあり、あいにくテレビの放映中で、団体客の参拝者姿が映し出されていた。



焼山寺山門


この焼山寺弘法大師空海が十八から二十四才の時(僧として得度する前)虚空蔵求聞持法の修行した場所の一つとして有名である。三十分程作法に従い、参拝した後、同じ道を下山に入った。途中で北海道小樽の四十才代の人と、寄居中まで一緒に歩いた。寄居中発十六時の徳島バスで十三番大日寺前に十六時四十二分到着し、今日
の宿の「かどや旅館」に入った。

まず汚れた衣類の洗濯より始めた。誰も歩き遍路の同宿者はいない様だ。

その二 へ         その四

藤井寺(ふじいでら)臨済宗妙心寺派金剛山、臨済宗妙心寺派、本尊:薬師如来。

ご詠歌 :色も香も 無比中道の 藤井寺 真如の波の たたぬ日もなし

弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地で自らと衆生の厄を祓い、薬師如来像を刻んで堂宇を建立、山へ2町入ったところの八畳岩に金剛不壊といわれる護摩壇を築き一七日(7日間)の修法を行ったのが開創であると伝えられる。

  

本堂                                 藤棚

この時、空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号したという。

なお、四国八十八箇所霊場のうち、寺号をの「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである

真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展したが、天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。延宝2年(1674年)に臨済宗南山国師が再興したことから臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍である。

 

焼山寺、摩盧山(まろざん)正寿院(しょうじゅいん)高野山真言宗、本尊:虚空蔵菩薩

ご詠歌:後の世を 思へば恭敬 焼山寺 死出や三途の 難所ありとも

 

深い山中にあるため、四国八十八箇所霊場の中でも随一の難所として知られる。また、阿波霊場三難所の一つにも数えられ「一に焼山、二にお鶴(二十番鶴林寺 三に二十二番太龍寺」と呼ばれる。

本堂

寺伝によれば大宝年間(701- 704年)、役小角(役行者)が開山し庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願するととうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。

足利尊氏は本寺を祈願所とし、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の帰依を受けていた。

(Wikipediaなどから作成しました)

 

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