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                        四国88箇所歩き遍路(第一回ーその四)

四日目(四月十八日)

(十三番大日寺から十八番立江寺まで 徒歩距離14.8㎞ 立江寺宿坊に一泊)

今日は中間にJR四国及び路線バスでの移動を含め七つの寺を参拝する計画である。

余裕を持って進める為、朝六時四十五分に宿を出発。50m先の十二番大日寺に入る。

本堂、大師堂を参拝し、納経所へ行くも七時になっても開かない。押しベルで合図をすると寺庭掃除中の住職が慌てて入ってきて納経書に朱印と墨書を記入して頂く。ついでに大日寺とこの寺の前の阿波一宮神社の関係を質問し、教えてもらった。

大日寺は当初は別の場所にあり、大日如来を御本尊としていたが戦火で焼失し、一時は廃寺に近かったが、阿波一宮神社か出来ると、その別当寺として、現在の位置に再建され、一宮神社の本地仏の十一面観音菩薩を御本尊とし、明治のはじめの神仏分離令により現在の様な形になったとの事である。

常楽寺境内の岩盤と鐘楼堂

七時十分に大日寺を出て、2.2㎞先の十四番栄楽寺へ向かう。

鮎喰川に架かる一宮橋手前で外国人の若者歩き遍路者を追い越す。まだ、歩き出したばかりなのに弱弱しい姿である。「おはよう」と声をかけると笑顔で返事をくれたがそれ以上話はせずに橋を渡り、畑の中の農道を三十分程進むと十四番常楽寺に着く。

ここは石段を登ると「流れ岩の庭」と呼ばれ、境内は岩盤の上にあり、そこに寺が立てられた珍しい寺である。

次は900m先の十五番国分寺は十五分程で到着。奈良時代の聖武天皇の祈願で日本全国の各国に一寺ずつ建立された中の阿波国国分寺である。また四国八十八カ寺の中でただ一つの曹洞宗の寺である。境内には鐘楼堂の前の礎石より往時の姿が偲ばれる。

国分寺山門から本堂

次には1.8㎞先の街中には小さな敷地内にこじんまりと纏められた十六番観音寺がある。ここを参拝し、国府町の街中を通り、JR徳島線の踏み切りを渡り、十七番井戸寺に向かう。途中で若い女性及び中年男性遍路者二人と会う。お互いに元気な声で一声挨拶するのみで通り過ぎる。九時五十分に井戸寺に到着する。

井戸寺山門から本堂

合掌し、朱塗り山門を通り、正面の本堂、ついで大師堂で大きな声で巡拝読経した。もう大きな声で先達さん達の様にすらすら読経出来る様になっていた。

この寺の寺名の起源である弘法大師が湧かせたと伝えられる「面影の井戸」で自分の姿が映っている事を確認し、迷信ながら「平穏無事」を喜んだ。十時三十五分発のJR徳島行きに乗るため、急いで府中駅に戻った。徳島駅までJRで行き、バスに乗り換えて小松島市経由で十三時四十五分に恩山寺前バス停で降りる。

十八番恩山寺は平地の中の高台にあり、竹林の中をミニ八十八カ寺の御本尊の石仏が道路脇に並立された場所を過ぎ、坂道に入ると寺の小僧らしき人が道路の草取りをしていた。「こんにちわ」「ご苦労様」のお互いに挨拶を交わしながら山門、太子堂、本堂と石段を登りながら参拝した。この寺は弘法大師が修行中、母堂が息子に会いに来た時、十七日間の「女人開禁修行」を行ってから迎え入れたとの伝えがある。

恩山寺大師堂

次の十九番立江寺まで4㎞田圃地帯を人通りの少ない車道を歩く。

対向から来た自家用車が止まり、おじいさんが降りてきて「お遍路さん、お接待させて下さい。」と言いながら缶ジュースとお茶のお接待を受ける。合掌して受け取る。十分程歩いた所にバス停の腰掛が有ったのでここで小休止し、先程お接待を受けた缶ジュースとお茶を頂く。十四時、27度の灼熱の道路を歩き、喉が渇いている時の飲物は本当に有り難く感じる。

元気を取り戻し、再び歩き始めると自転車で下校途中の中学生に会う。皆元気な声で「こんにちわ」と挨拶してくれる。大変気持ち良く最後の立江寺に十五時五十分に到着。参拝後宿坊に入る。立江寺山門を入ると大師堂、多宝塔、本堂が向き合って並んでいる。

この寺は「阿波の関所寺」と言われ、「悪行をした遍路者は改心しないと、ここから先は進めない」と信じられてきた寺である。

宿坊では歩き遍路者三人が大部屋に同宿となった。十七時からの夕方の勤行に出席。初めての宿坊に於ける勤行は中々な厳粛な感じがした。勤行後の寺内見学で御本尊台臓曼荼図、金剛曼荼羅図、等を拝観した。また立江寺の庭のボタン花、しだれ桜の花が綺麗に咲いた庭園は見事なものであった。

立江寺の牡丹

夕食は団体客と一緒で七十人程畳の大広間でお膳に乗った精進料理を頂いた。

 同室の二人は部屋に戻り、明日の二十番鶴林寺二十一番大龍寺「遍路ころがし」に向けて足の手入れをしている。二人共、足に豆が出来ていてその治療と足のストレッチを行い、疲れを取る事に専念していた。幸運にも小生はまだ足に豆が出来ていない。 

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第十三番大日寺:
大栗山(おおぐりざん)花蔵院(けぞういん)真言宗大覚寺派、本尊:十一面観音。

ご詠歌:阿波の国 一の宮とや ゆうだすき かけてたのめや この世後の世

   

   大日寺山門                                  本堂

寺伝によれば、弘法大師空海がこの付近の大師が森で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置したという。

天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部元親の兵火によってすべて焼失したが、徳島藩3代藩主蜂須賀光隆によって再建された。その後、阿波一宮神社別当寺となり、江戸時代には一宮神社が札所とされていたようである。明治の神仏分離によって阿波一宮の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を移して本尊とし、大日如来は脇仏とされた。

 

第十四番常楽寺:盛寿山(せいじゅさん)、延命院、高野山真言宗、本尊:弥勒菩薩。

四国八十八箇所で本尊を弥勒菩薩とするのは本寺だけである。

ご詠歌:常楽の 岸にはいつか いたらまし 弘誓の船に 乗り遅れずば

常楽寺本堂

伝によれば、空海(弘法大師)がこの地で修行をしていた際に、弥勒菩薩が多くの菩薩を連れた姿を感得した。そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したという。

四国八十八箇所で本尊を弥勒菩薩とするのは本寺だけである。

空海の甥に当る真然僧正金堂を建立、祈親上人講堂、三重塔などを建立し七堂伽藍の大寺院となったと伝える。

天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって再興された。文化15年(1815年)に溜池構築のため低地の谷から石段を50段ほど上った現在地に移転した。

 

第十五番阿波国分寺:薬王山、金色院(こんじきいん)曹洞宗、本尊:薬師如来。

ご詠歌:薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死の 秋のもみじば

  

山門と本堂                               鐘楼と本堂

聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ。寺伝では行基が自ら薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来像と大般若経、光明皇后の位牌厨子が納められたと伝わっている。

当初は法相宗の寺院として七堂伽藍を有する大寺院であった。弘仁年間(810824年)に空海(弘法大師)が巡錫した際に真言宗に改宗したとされる。

史実としては、正確な成立過程は不明であるが、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、遅くともこの頃には完成していたことがわかる。

天正年間(15731592年)土佐の長宗我部元親の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、 寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。

第十六番観音寺、光耀山(こうようざん)、千手院(せんじゅいん)高野山真言宗、本尊:千手観世音菩薩。

ご詠歌:忘れずも 導きたまへ 観音寺 西方世界 弥陀の浄土へ

   

山門                                   本堂

寺伝によれば、聖武天皇国分寺建立の勅命を出した際に行基に命じて勅願道場として本寺を建立、弘仁7年(816年)に空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。

天正年間(15731592年)に長宗我部元親の兵火に焼かれるが、万治2年(1659年)阿波藩主蜂須賀光隆の支援を受け宥応法師が再建した

第十七番:井戸寺、真言宗善通寺派。瑠璃山、真福院(しんぷくいん)真言宗善通寺派本尊:薬師如来

薬師如来を中心に1体、左右に3体ずつ安置した七仏薬師如来で、聖徳太子作と伝えられている。

ご詠歌:おもかげを うつして見れば 井戸の水 むすべば胸の あかや落ちなん

     

仁王門                                   本堂

日限大師

寺伝によれば、天武天皇の勅願により673年に創建した妙照寺が前身とされる。伝承では弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩、十二神将、四天王、日光菩薩、月光菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も井戸寺と改めたという。

貞治元年(1362年)細川頼之の兵火に遭い、ついで天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火でも堂宇を焼失、慶長年間(1596- 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年)にようやく本堂が再建となる。また、昭和43年(1968年)には失火により本堂が焼失。幸い本尊は救い出され、3年後に再建された。

第十八番:恩山寺、母養山(ぼようざん)宝樹院、高野山真言宗、本尊:薬師如来。

ご詠歌:子を産める その父母の 恩山寺 訪いがたき ことはあらじな

本堂と鐘楼

寺伝によれば聖武天皇の勅願により行基が開基し、当初は大日山福生院密厳寺と号する女人禁制の道場であったという。弘仁5年(814年)、空海(弘法大師)が本寺で修行していた際に訪問してきた母、玉依御前のために女人解禁の修法を行い迎え入れた。玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、空海が自身の像を刻み現在の寺名に改めたとされる。

天正年間(1573- 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代に入って徳島藩主蜂須賀氏の支援を受けて復興、文政年間(1804- 1830年)に現在の諸堂が建立された。

第十九番:立江寺、橋池山(きょうちさん)、摩尼院(まにいん)、高野山真言宗、本尊:地蔵菩薩。

ご詠歌:いつかさて 西の住居の わが立江 弘誓の船に 乗りていたらん

   

山門                                        本堂

多宝塔

寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基光明皇后の安産を祈願し一寸八分(5.5cm)の金の地蔵菩薩を刻み本尊として開基したとされる。空海(弘法大師)が訪れた際、小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収めたといい、この時に寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時の所在地は現在地から400mほど西であったという。

天正年間(1573- 1593年)に長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された。昭和49年(1974年)に火災が発生、本堂が焼けたが本尊は無事で昭和52年(1977年)に再建された。

(Wikipediaなどから作成しました)

 

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