このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


四国88箇所歩き遍路(第一回—その五)

第五目(四月十九日

(二十番鶴林寺から二十一番大龍寺 徒歩距離14.5㎞ ともえサービス旅館に一泊)

今日は阿波の二つ目の「遍路転がし」の難所である寺を参拝する予定である。

朝五時三十分に立江寺の宿坊を出発。歩きで立江駅に行き、JR牟岐線立江駅六時十八分発の列車に乗り、徳島駅まで戻り、徳島駅発七時十分発の徳島バス鶴林寺登口の生名に八時十分到着する。

バスの運転手の助言の「鶴林寺から太龍寺を下るまで食堂、コンビ二は全く無いので、生名のコンビ二で食料を購入して行く様に」に従い、バス停横のコンビ二でおむすびニ個とカルピスを購入し、リュクサックに詰め、登口を出発。生名鶴林寺との高低差は3㎞歩いて470m登る事になる。

最初の登りはミカン畑の中を登り、水呑み太子までは緩やかだが此れからは厳しい勾配になり、息を切らせながら曲がりくねった道を登る。

十分毎に小休止し、下界を眺めて気分転換しながら一時間で二十番鶴林寺山門に着く。白衣の中は汗でびしょ濡れである。境内は杉巨木の茂る森の中に整然と伽藍が並んでいる。本堂の前には左右にこの寺の縁起にまつわる鶴の像が立っている。鶴林寺参拝後休み場でカルピスを少し飲み休息する。

鶴林寺山門

その後、次の二十一番太龍寺に向かう。鶴林寺の標高500mから一坦標高40mまで下り、那賀川に架かる水井橋を渡り、再度標高520mの大龍寺まで登ることになる。

鶴林寺からの下りは高低間隔がバラバラな丸太の石段を金剛杖の補助を受けつつ衝撃力を弱めながら下る。ひざが、がたがたになり登りより体力の消耗が激しい。歩き遍路道から車道に出た所で道を間違えて約1㎞遠回りをした。

大龍寺までの最後の約2㎞の距離を高低差480m登ることになる。500m毎に小休止しながら登り、合計6.7㎞の距離を二時間四十分かかり、二十一番大龍寺に到着した。

太龍寺本堂

太龍寺西の高野山と言われ弘法大師空海が十八から二十才までの自叙伝である「三教指帰」の中で修行場として記載されている。

樹齢千年を越える多くの杉巨木が立ち並ぶ広大な寺域の中に山門から本堂、太子堂、大坊、求聞持堂、多宝塔等十個の伽藍が立ち並んでおり、歴史に染め抜かれた霊気の成せる寺であり、ケーブルで登って来る団体参拝客も多く、遍路参拝者の読経がこだましていた。

ケーブル駅でむすびの昼食の取り、ケーブルで和食東に下り、バスでJR牟岐線桑野駅に近い、「ともえビジネス旅館」に十四時四十分到着。

宿泊客は一人でゆっくり風呂に入り、「遍路転がし」での疲れを取ると共に衣類全部洗濯した。八時に消灯し、熟睡した。

(常陸国住人後記)

 ここのケーブルは有名なようで、遍路と言うよりも観光で来る人も多いようです。

   

太龍寺駅(Wikipedia)                     ケーブルと周辺(JAFなび)

その四 へ  その六

 

第二十番鶴林寺:霊鷲山(りょうじゅさん)、宝珠院(ほうじゅいん)、高野山真言宗、本尊:地蔵菩薩。

「お鶴さん」と呼ばれ、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所。

ご詠歌:しげりつる 鶴の林を しるべにて 大師ぞいます 地蔵帝釈

本堂

延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。寺伝によれば、空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵尊を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた18分の地蔵尊を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。

第二十一番:太龍寺(たいりゅうじ)、舎心山、常住院、高野山真言宗、本尊:虚空蔵菩薩。

阿波秩父観音霊場の第十番札所

ご詠歌:太龍の 常にすむぞや げに岩屋 舎心聞持は 守護のためなり

      

山門                                          本堂

空海(弘法大師)24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。

延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって堂塔が建立され、空海虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。[1]

皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573- 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。

(Wikipediaなどから作成しました)

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