このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

               
             四国88箇所歩き遍路(第一回ーその六)

第六日目(四月二十日)

(二十二番平等寺から二十三番最御崎寺まで 徒歩距離8.9㎞ まぜの宿に一泊)

 

今日は路線バスJR四国を全面的に活用し、遍路計画した日である。朝七時五十一分桑野駅のJR牟岐線で隣駅の新野駅に移動した。

新野駅から二十二番平等寺までの歩きは遍路道では無い為、歩き遍路マークの道標は無い。従って地を読み、進むしかなく。地図を頼りに歩き出す。
たまたま新野高の学生八人が学校への道が平等寺への街道であったので学生と話をしながら進み、三十分程で平等寺に着く。

この寺は60m程の高台にある小さな寺で山門を石段で上がって左手に大師堂鐘楼堂白水の井戸、右手に納経所があり、ここから石段で登って本堂になるが左側に三十三段の女厄坂、右が四十二段の男厄坂となっている。

参拝を済ませて新野駅へ帰る途中で郵便局に寄り絵葉書を投函した。

次に電車で日佐和駅十一時十三分に下車。天気予報通り土砂振り雨である。雨具に着替えて駅を出て二十三番薬王寺へ向かう。

ここは薬王寺の門前町の様相で土産店が並んでいたが大雨の為、参拝客は全くいない。十分程で到着する。

薬王寺厄除け寺と言われ、山門から女厄坂を上がり、絵馬堂、そして男厄坂を登り本堂。

薬王寺本堂

次に還暦坂を上がり瑜祇塔へと配置されていた。また寺からの日佐和海岸の眺めはすばらしいと言われるが大雨で観賞できず。

日佐和駅に戻り、駅に併設された商店街の食堂で昼食を取り、十二時二十一分発の列車でJR牟岐線と阿佐海岸線経由で甲の浦に着く。

ここで高知東部バスに乗り換え海岸線を一時間程走り、室戸岬に到着した。車中からの眺めは片側に山が迫り、反対側は荒れた近海しか見えず、日佐和駅より一緒になった茨城県牛久市の歩き遍路客二人と話をしながら時間を過した。

彼らはこの三月に目出度く定年退職し、記念に遍路に来たとの事である。室戸岬に着く前に白い大きな弘法大師像と若き日に求聞持法の修行した御蔵洞の前を通り、室戸岬に到着した。

御蔵洞修行中に口の中へ明星が飛び込んで来たと言うエピソードがある悟りを会得した場所である。

御蔵洞

 室戸に到着した時には一時的に雨は上がっていたので三人で二十四番最御崎寺に向け、高低差160mのすべる土道を登る。

 小休止を取りつつ息を切らせながら三十分で山門に到着する。

最御崎寺山門

 御蔵洞、最御崎寺に十五番金剛頂寺の不動岩は行道修行の本場と言われている。

 最御崎寺からの帰りはスカイラインの車道をゆっくり三人で景色を眺めながら下る。

最御崎寺スカイライン

 室戸岬から足摺岬までの土佐湾を辿る海岸線は美しく絶景である。雨の中の一時の晴れ間であった。

 下り降りた所にある今日の宿「まぜの宿」に入る。その後雨が大降りになり、今日の室戸岬見学は止めて、洗濯をしたり、早めに風呂に入  る。

 今日の宿の本業は喫茶店で店主夫婦と長男の三人で経営して居り、家族と一緒に話をしながら夕食を頂いた。

 驚いた事に「歩き遍路の約十%は乞食である。」と新聞に出ていたとの話である。最近は不況で多くなり、四国全体で約百人はいると言わ  れている。

 

(常陸国住人追記)

              小生のドライブ旅行は、丸山さんとは、ほぼ逆周りでした。この辺りは、最後の日でした。

              ここにでてくる二十三番薬王寺二十四番最御崎寺には、通りがかりに参拝しました。

            丸山さんが見られなかった室戸岬周辺なども見ていますので、参考に見てください。

                                  下記をクリックしてください。

                           四国の旅(その6) 東の岬そして旅の終わり

その五 へ  その七

 

  
 

平等寺、白水山(はくすいざん)、医王院(いおういん):高野山真言宗:本尊薬師如来。

阿南室戸歴史文化道に指定されている。

 

ご詠歌: 平等に 隔てのなきと 聞く時は あら頼もしき 仏とぞみる

 

伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると5色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が浮かんだ。さらに薬師如来が現れたので、その場で錫杖で井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。

七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573- 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716- 1736年)になって照後僧正によって再興される。

 

薬王寺、医王山(いおうざん)、無量寿院(むりょうじゅいん)高野山真言宗、本尊薬師如来

除けの寺として名高い。

 

ご詠歌 皆人の 病みぬる年の 薬王寺 瑠璃の薬を 与えましませ

 

神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建。弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が本尊として薬師如来を彫り再興したとされる。

文治4年(1188年)火災により堂塔を焼失した。この時に本尊は奥之院の玉厨子山に自ら飛んで焼失を逃れたという伝説がある。その後、後醍醐天皇により堂塔が再建された。本尊が新たに彫られたが、元の本尊もこの時に飛んで帰り後ろ向きに厨子に入り自ら厨子を閉じたとされ「後向き薬師」と称される。元の本尊は以後秘仏となった。このため、この寺には本尊が二体ある。

 

最御崎寺(ほつみさきじ)室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)真言宗豊山派

土佐で最初の札所で、金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。

 

ご詠歌: 明星の 出ぬる方の 東寺 暗き迷は などかあらまじ

  

山門                                    本堂

空海は都での学問に飽き足りず、19歳頃からの約5年間、山林修行を続けた。延暦11年(792年)、19歳の空海は、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)虚空蔵求聞持法に励んだとされる。寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044- 1055年)頃といわれている。

嵯峨天皇以降歴代天皇の信仰が篤かった。足利尊氏によって土佐の安国寺とされる。その後火災により焼失したが、元和年間(1615年〜1624)には土佐藩主山内忠義の援助を受け僧の最勝が再興する。堂塔を建立、七堂伽藍を有したという。明治に入って神仏分離令によって荒廃するが、大正3年(1914年)には再建された。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている。

 

(Wikipediaなどの抜粋です)

(常陸国住人後記)

土佐薩摩などと並んで明治の廃仏希釈を最も厳しくやった地方です。
もともと江戸時代から88箇所廻りには熱心でなく、明治以降の混乱最近まで続いてきました。


 

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