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四国88箇所歩き遍路(第一回—その7

第七日目(四月二十一日

(二十五番津照寺から二十八番大日寺まで 徒歩距離20.8㎞ 丸米旅館一泊)

テレビの天気予報で今日は風雨が強く、大荒れで宿の主人と相談して、雨が小降りになる所までバスで移動する事にした。

まず、八時三分発の奈半利行きのバスに乗るため、宿より40m先のバス停まで雨具の完全防備姿で宿の主人の雨傘の助けをかりながら行き、バスに乗る。
しかし、岬の暴風雨は凄く、
下着まで濡れてしまった。

乗客は一人で5㎞先の二十五番津照寺で降りた。霧雨の煙る中を室津港の海辺の小高い丘の上に登って本堂に着く。

この寺は津寺と言われ、地蔵菩薩が御本尊で海上安全と豊漁の守護仏として漁師の厚い信仰を集めている。しかしこの大雨の中では参拝客はいなかった。

次の3.8八㎞先の二十六番金剛頂寺へは雨の中、海辺の車道を進む。車は少なく荒れる海岸線を見ながら1㎞程進むと海に突き出た行当岬が見えて来た。

2㎞程進むと稜線を辿る事になり、そこから急坂を登り山頂の金剛頂寺に着いた。

金剛頂寺山門

 金剛頂寺西寺と呼ばれ最御崎寺東寺と対になり、辺地修行の霊場で有名である。

 弘法大師空海を始め仏教や修験道の修行者は、最御崎寺、御蔵洞、金剛頂寺、不動岩を回行し、修行したと言われている。

 雨の中、参拝を済ませ、バス通りの元橋まで下り、高知東部バスで奈半利駅まで行き、ここで土佐くろしお鉄道唐の浜駅に十二時 十五分到着した。

 唐の浜駅は無人駅で近くに食堂も無くコンビ二も無い田圃の中の駅であった。やむなく標高420m距離3.4㎞先の二十七番神峯寺  を目指して足を進めることにした。

神峰寺山門

 神峯寺は高知の修行道場の難所として有名で最初は激しいカーブある車道を進み、途中から真直ぐ登る歩き遍路土道となる。

 急坂をあえぎながら時々小休止し、辺りを見回すが霧雨で50m先は見えず一心に登るのみである。雨具で体の中は蒸れて暑く、ボタン を外しながら歩く、雨と汗で衣類はびしょ濡れである。

 江戸時代の「四国遍路霊場記」には「幽径の九十九折が続き黒髪も黄色くなってしまう。」と書かれる程の厳しさである。

 天気の良い日には途中から振り返っての眺めはすばらしいと言われているが今日は眺められず残念であった。遍路土道には沢蟹や蛇 が顔を出しているのが目立った。

 山頂に着くと神峯神社鳥居を潜り山門で合掌し、湧き出る「神峯の水」で喉を潤し、鐘楼堂の横から長い石段を登り本堂、大師堂 で参拝した。この奥に神峯神社がある。

 雨天ではあるが沢山の参拝客で賑わっていた。また外国人の夫婦がキャンピングカーで遍路中。今日はこの寺でテントを張りたいが良 いかとの相談を受けた。 そこで納経所へ連れてゆき、住職と交渉し了承を得ることが出来た。

 珍しく神峯寺山門の横にうどん食堂があり、早速入ってうどんの昼食を頂いた。

 濡れた下着を着替え、雨も上がったので雨具もリュクザックに入れ、一休みして、また唐の浜駅まで下った。 十五時十分発の土佐くろ しお鉄道野市駅に十五時四十分到着した。

 今日の宿は野市駅より十分程の所であるが、まだ時間が早いので2㎞先の二十八番大日寺を追加参拝することにした。

 野市駅より香南市の市街地を通り、国道二十二号より少し入った所に大日寺があった。この寺は四国八十八所の中で三つ目の大日 寺である。 

大日寺山門

 十六時三十分に参拝終了し、今日の宿「丸米旅館」に十七時に到着した。今日の宿は四人の歩き遍路者が同宿であった。夕食は酒を 飲みながら一緒に楽しく頂いた。

(常陸国住人後記)

 小生が四国に行った時、大日寺金剛頂寺に立ち寄りました。下記をクリックすると見ることができます。

  四国の旅(その6

その六へ     その八へ

 

津照寺(しんしょうじ)宝珠山(ほうしゅざん)真言院):真言宗豊山派:本尊:楫取延命地蔵菩薩。

阿南室戸歴史文化道の指定を受けている

ご詠歌:法の船 入るか出るか この津寺 迷う吾身を のせてたまえや

津照寺山門

 寺伝によれば、大同2年( 807 )に空海がこの地を巡錫した際、山の形が宝珠に似ておりこの地が霊地であると感得し、宝珠に合わ せ、一刀三礼して延命地蔵菩薩を刻み堂宇を建立し開創したという。『今昔物語集』には当寺が「津寺」の名で登場し、本尊地蔵菩 薩の霊験が語られている。また、慶長年間(1596年〜1615年)に土佐藩主山内一豊が室戸沖で暴風雨に遭ったとき、どこからともなく 一人の僧が現れて船の楫をとり無事に室津の港に着けて立ち去った。
 衣から垂れた水跡を辿っていくと本寺の本堂の前で終わっていた 。そこで本尊を拝観するとその姿が濡れており、本尊の地蔵菩薩が 僧に姿を変えて船を救ったことを悟った。このことから本尊を楫取地蔵と呼ぶようになったという。


金剛頂寺(こんごうちょうじ)龍頭山(りゅうずざん)光明院:真言宗豊山派、本尊:薬師如来。

ご詠歌:往生に 望みをかける 極楽は 月のかたむく 西寺のそら

本堂

 嵯峨天皇の勅願により大同2年(807年)に弘法大師(空海)薬師如来を刻んで創建したという。嵯峨天皇、淳和天皇勅願所と し住職も十代まで勅命によって選定された。長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主の祈願所とされた。


神峯寺(こうのみねじ)竹林山(ちくりんざん)、地蔵院:真言宗豊山派、本尊:十一面観音。

ご詠歌:み仏の 恵みの心 神峯 山も誓ひも 高き水音

神峰寺本堂

 寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀ったのが起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受け て行基十一面観世音菩薩を刻み、本尊として合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し 、観音寺と号したといわれる。

 真っ縦(まったて)と呼ばれる急な山道を登った山上にあり、四国八十八箇所屈指の難所として知られた。

 明治初年の神仏分離令によって廃寺となり、本尊金剛頂寺に渡されたが、明治20年(1887年)に茨城県の竹林山地蔵院の寺格 を移して再興され、昭和に入って神峯寺と称するようになった。


大日寺、法界山(ほうかいさん)、高照院(こうしょういん)真言宗智山派、本尊: 剛界 大日如来。

ご詠歌:露霜と 罪を照らせる 大日寺 などか歩みを 運ばざらまし

大日寺本堂

 寺伝によれば天平年間(729年〜749年)に聖武天皇の勅願により、行基大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。弘  仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。

 慶長年間(1592年〜1615年)から土佐藩の祈願所となり栄えたが、明治に入って神仏分離令によって廃寺となる。その後明治17 (1884)再興された。

Wikipediaなどからの引用です)

(常陸国住人後記)

 土佐の明治の廃仏毀釈の影響は、まことに大きいものがあります。戦国末期の阿波の国の長宗我部の兵乱と同じような感じがします。

 今回の丸山さんの遍路の旅のお寺の内、金剛頂寺大日寺には、四国ドライブの時参拝しました。

 周辺の状況など、下記をクリックしてみてください。

     四国の旅(その6)

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