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88箇所歩き遍路(第一回目ーその八)

第八日目(四月二十ニ日)

(二十九番国分寺から三十二番禅師峰寺 徒歩距離28㎞ 民宿千松に一泊)

 丸米旅館を六時四十分出発。野市駅から土佐くろしお鉄道で二十五分間乗車し、ごめん駅で下りる。

 南国市街地へ通う学生、通勤客で電車は寿司詰めであった。ごめん駅より南国市街地を通り国分川を渡り、七時四十五分に二十九  番国分寺に到着した。

国分寺山門

 この寺は土佐日記の著者の紀貫之が国府の役人として四年間滞在したと言われ、二層構造の山門?葺寄棟造りの本堂国指定 文化財が多数あり、有名な霊場である。

 また納経所前の庭園に無色のビニールの傘を被せた椿がきれいに咲いていたのが印象的であった。

 次の6.9㎞先の三十番善楽寺までは田圃の中の農道を歩き、水に満たされた早苗の生き生きとした姿を見ながら静かに歩けたのは気 分の良い時間であった。

 善楽寺を参拝し終えて引き続いて6.5㎞先の標高120mの五台山上にある三十一番竹林寺へと向かった。

 途中高知市内に入り、JR土讃線の踏切を越し、国分川、舟入川を渡り牧野富太郎植物園の中を通り、竹林寺に到着。

 植物園には沢山の草花が咲き乱れ週日にもかかわらず入園者が多数であった。

 竹林寺は大きな寺で本堂、太子堂、のほか五重塔を含めて十個のお堂が整然と森の中に立ち並び、また美しい庭園もあり霊気の漂う 場所である。

竹林寺本堂

 またこの高台から高知市内の眺めは格別なものがある。御本尊文殊菩薩で今日も参拝客で賑わっていたが受験シーズンには受験  生が多数訪れると言われている。

 山門の長い石段を下り、下田川にかかる小橋を渡り、車道を真直ぐ進むと二つトンネルを抜けると海岸にでる。

 海岸線に沿って車道を2㎞北上すると標高80mの高台に三十二番禅師峰寺への小橋を渡り、車道を真直ぐ進み二つのトンネルを抜け  ると海岸に出る。

 海岸線に沿って2㎞程北上すると標高80mの高台に禅師峰寺がある。

禅師峰寺山門

 禅師峰寺山門で合掌し石段を登り本堂、大師堂のある高台 からは桂浜を遠方に望む土佐湾の大パノラマが美しく眺められた。

 この寺の御本尊十一面観音船塊観音と呼ばれ航海安全の保護仏として漁師の信仰を集めていると言われている。

 参拝を終わって今日の宿の「民宿千松」に向かって海岸線の車道を歩いていると自家用車から「お遍路さん接待させて下さい。」と言う老 人の叫び声に引き止められた。

 「是非宿まで車で遅らせて下さい。私も若い頃、歩き遍路の途中で助けられたので貴方を車で宿まで送りたい」との話である。

 では浦戸大橋の麓の民宿まで、宜しくお願いしますと言いながら車に乗り、茨城より家内の供養に遍路している事を話すとせっかく茨城 から来たならまだ時間が早いので桂浜まで送るから坂本竜馬の像を見学しなさいと教えて下さり、桂浜まで行き老人のお接待にお礼を 言って分かれて桂浜を見学した。

 ここから善意のお接待が小生の大変な危険と苦痛を受ける事に成ってしまった。見学が終わり「民宿千松」に戻るためには浦戸大橋を  歩いて渡る必要がある。

 所がこの橋は海上80m、長さが800mの車専用道路で歩道50cmほどで海側に1mの手摺、車道側には手摺なしである。風が強く、対 向車からの風圧もあり、高所恐怖症の小生には渡りきるまでの約十分間は片手に菅笠を掴み、もう片手は手摺に触りながら足元だけを見 て進む。こんな恐怖感を感じたのは始めてある。

浦戸大橋

 「民宿千松」に着いて夕食時にこの話を奥様に話をしたら、あの橋は車両専用で人間は普通渡らないと言われた。この民宿はつり客が  主だが今日は小生一人であった。

 尚、宿帳には四月三日に日立市大みか町の六十五才の男性がやはり歩き遍路で一泊している事が判った。

  (常陸国住人より) 

 土佐は高知の播磨屋橋、桂浜、坂本竜馬などなど。時間の関係もあって、善楽寺しか参拝できませんでした。
下記をご覧下さい。

四国の旅(その5)  

       その七 へ   その九      

 

 

土佐国分寺、摩尼山(まにざん)宝蔵院、真言宗智山派、本尊:千手観世音菩薩

札所寺院としては単に「国分寺」と称するのが通例である。

ご詠歌国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり

    

国分寺本堂

聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)毘沙門天を刻んで奥の院に安置、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。

国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。

寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている。

善楽寺、百々山(どどざん)、東明院(とうみょういん)真言宗豊山派、本尊:阿弥陀如来。

ご詠歌:人多く 立ち集まれる 一の宮 昔も今も 栄えぬるかな

  

本堂                                   大師堂

応仁年間(14671469)に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。明治初期の神仏分離廃寺となり、本尊の阿弥陀如来弘法大師像とは南国市にある29番札所国分寺に移された。善楽寺の廃寺により明治8年(1875年)に再興された安楽寺30番札所となった。昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺にあった弘法大師像を移して善楽寺が再興された。30番札所の正統性について善楽寺安楽寺の間で論争が起こり、札所は2箇所並立となった。平成6年(1994年)11日、安楽寺を30番札所奥の院とすることで決着した。

竹林寺、五台山(ごだいさん)金色院(こんじきいん)真言宗智山派、本尊:文殊菩薩。

切戸文殊、安倍文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。文殊菩薩本尊とするのは本寺だけである。

ご詠歌:南無文殊 三世の仏の 母と聞く 吾も子心 乳こそほしけれ

    

山門                                     五重塔

寺伝によれば、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806810年)に空海(弘法大師)が滞在、修行し堂塔を修復したと伝えられる。

実際の創建年代等について不詳である。中世以降は武家の信仰も厚く寺運も隆盛し、1318年(文保2年)には臨済宗の僧夢窓疎石もこの寺に滞在している。その後、寛永年間(1624年~1644年)空鏡によって再興された。江戸時代には土佐国における真言宗の触頭を勤める寺院のひとつであった。また、本尊の文殊菩薩の出開帳を江戸や大阪で行っている

禅師峰寺(ぜんじぶじ)八葉山(はちようざん)求聞持院(ぐもんじいん)真言宗豊山派、本尊:十一面観世音菩薩。

ご詠歌:静かなる 我がみなもとの 禅師峰寺 浮かぶ心は 法の早船

  

本堂                                   土佐湾の景色

寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、現在の寺名を定めたという。

土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。

(常陸国住人後記)

善楽寺から、室戸岬周辺は、下記も参考にしてください

四国の旅(その5)

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