このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


                      四国88箇所歩き遍路(第一回ーその九)

九日目(四月二十三日)

(三十三番 雪渓寺から三十六番 青龍寺まで 徒歩距離 28.2㎞ 三陽荘で一泊)

今日は浦戸湾を渡し船で渡る為、種崎を朝六時四十分の始発に間に合う様「民宿千松」を六時十分に出発。渡し船は自転車通学の高校生と一緒に乗り、七分で長浜に到着。

2㎞程進み十五分で三十三番雪渓寺に着く。この寺は藩主長宗我部氏の菩提寺元親の法名を取り「雪渓寺」と名付けられたと言われている。

次は6.3㎞先の三十四番種間寺である。田圃と多数のビニールハウスの並ぶ農村の中を一時間二十分程歩き八時四十分に着く。

弘法大師空海から持ち帰った五穀の種を蒔いた事が寺名の由来で寺門前には苗、種の店が今もある質素な寺である。

次は種間寺の前の農道を道なりに進むとやがて国道五十六号線とぶつかり、清流で知られる仁淀川に至る。仁淀大橋を半分渡った所で対向車が止まり、窓を開け三十代の美人女性が「接待させて下さい。荷物になると思いますが召し上がって下さい。」と二個の缶ジュースの接待を受けた。

仁淀大橋

気持ち良くお礼を言って頂いた。橋を渡り仁淀川の堤防を2㎞程歩きながら進む。また、途中で貰ったジュースを飲む。

仁淀川の清流の中で三人の鮎つりをしている姿が快晴の空と周りの山々の緑に映えて見えた。本当に気持ち良い一時の歩きである。

やがて土佐市の市街地に入り、車の往来も多くなって来た。そのうちに若い女性歩き遍路者と一緒になった。二十分ほど一緒に歩きながら話をした。

四月一日より歩き始めやっと二十四日でここまできた。今後も八十八ヶ寺を時間がかかっても完歩したいと張り切っていた。

土佐市高岡から高知自動車道の高架を潜り、八丁坂といわれる急な参道を登る。道端にミニ八十八カ寺石仏が並び心が癒される。

三十五番清滝寺山門を入り高台の境内に入ると高さ12mの薬師如来像が立っている。

清滝寺本堂と薬師如来像

その背後に大師堂、本堂等があり、この高台から土佐市、仁淀川、が一望された。

またこの寺は弘法大師空海が修行中に杖を突いた時清水が湧き出て滝の様にほと走った事に寺名は由来する。

清滝寺の参拝を終わり、高台から下り、観光バスの駐車場に新設されたうどん屋があった。ここで多数の参拝客と一緒に昼食を食べた。

昼食後は土佐市役所まで歩き宇佐行きの路線バスで十四時に宇佐バス停に着く。ここから宇佐大橋を渡って対岸に着き、しばらくせまる海と山の間の狭い海岸道を進むと道は山側に曲がる。

ここから石仏が並ぶ参道を通り、明徳義塾高校の横を抜けて三十六番青龍寺山門に出る。

朝青龍も走った石段

ここから森のうっそうとした中を長い石段を登ると本堂、大師堂になる。この石段は大相撲の朝青龍のほか、明徳義塾高校のスポーツ選手が体を鍛えた石段である。

また寺名縁起は弘法大師空海が唐から戻り密教の師恵果和尚をしたい長安の青龍寺に倣い開いたと言われている。

青龍寺の参拝を終わると今日の宿三陽荘に十五時二十五分に到着した。三つの仏の祭壇がある宿坊風のホテルであり、大きな風呂は昼夜入れて朝出発までに三回入浴した

清龍寺には、小生も参拝しました。 「四国の旅(その5) 」を参照下さい。

その八 へ   その十

 
 

雪蹊寺(せっけいじ)高福山、高福院(こうふくいん)臨済宗妙心寺派、本尊:薬師如来。

ご詠歌:旅の道 うえしも今は 高福寺 後のたのしみ 有明の月

空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。その後鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという。「運慶、快慶が来山」とのことは伝承の域を出ないと思われるが、雪蹊寺に伝わる毘沙門天三尊像湛慶の真作として著名なものである。

その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573- 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。長宗我部元親が病没すると、その菩提寺となり、長宗我部元親の号から「雪蹊寺」と称した。明治時代になると廃仏毀釈により一時廃寺となったが、大玄和尚が復興した。廃仏毀釈により廃寺となった時、寺院跡に隣接して秦神社が建立され長宗我部元親が祀られた。

種間寺(たねまじ)本尾山(もとおざん)朱雀院(すざくいん)、真言宗豊山派、本尊:薬師如来。

安産祈願の寺である。

ご詠歌:世の中に 蒔ける五穀の 種間寺 深き如来の 大悲なりけり

寺伝によれば用明天皇在位(585年〜587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年〜824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来本尊として安置して開基したといい、その際にから持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。

天暦年間(947年〜957年)には村上天皇藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令廃寺となるが、明治13年(1880年)に再興される。

清瀧寺(きよたきじ)醫王山(いおうざん)鏡池院(きょうちいん)、真言宗豊山派、本尊:薬師如来。

ご詠歌:澄む水を 汲むは心の清滝寺 波の花散る 岩の羽衣

寺伝によれば養老7年(723年)行基本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。

平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の乱に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり、貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。

青龍寺(しょうりゅうじ)独鈷山(とっこうざん)伊舎那院(いしゃないん)真言宗豊山派、本尊:波切不動明王。

波切り不動さんの愛称がある。

ご詠歌:わずかなる 泉に棲める 青龍は 仏法守護の 誓ひとぞきく

  

寺伝によれば弘仁年間(810年〜824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。

江戸時代初期には荒廃していたが、土佐藩2代藩主山内忠義によって正保年間(1644年〜1648)に再興された。しかし、宝永4(1707)には地震と津波で大きな被害を受け、江戸末期に再建された。

Wikipedia などから引用しました

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