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第十日目(四月二十四日) (三十七番岩本寺から三十八番金剛福寺へ 徒歩距離6㎞あしずり旅館双葉で一泊) 今日は第六日目と同じく寺間距離が長くJR四国や路線バスを活用し移動する計画の日である。三十六番青龍寺から三十七番岩本寺まで58㎞、岩本寺から三十八番金剛福寺80.7㎞を一日で参拝する計画である。 まず宿泊した「三陽荘」のマスターに朝、乗用車で宇佐のバス停まで送ってもらい七時五分宇佐を立ち、高知県交通バスで須崎駅に八時十七分到着。須崎からJR土讃線特急「しまんと一号」で窪川駅へ九時ニ十六分到着。 三十七番岩本寺は窪川駅から徒歩十分の所にあり、不動明王、薬師如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、観世音菩薩の五体を御本尊とする珍しい寺であり、本堂の天井絵は有名である。 岩本寺の天井絵 窪川駅からは土佐くろしお鉄道で十時五十七分発、十一時三十三分着で中村に移動。 窪川からは二人の東京出身の遍路者と一緒となる。一人は善根宿や野宿で三十七番まで来たが足の痛みに耐えかね今日から電車とバスの乗りつぐ遍路に変更したとの事。もう一人は八十才前後の商店の主人で昨年家内が亡くなって、その供養に電車バスの乗り継ぎ遍路に来たと言っていた。 足摺岬行きバスの発車時間まで三人で駅前の食堂で昼食を食べた。十二時五分発の高知西南交通バスで中村を出て一時間四十五分バスに乗り足摺岬に着いた。バスの進行順序と周囲の風景は次の通りである。 四万十川 まず中村駅を出発して中村市街地を過ぎ、あの有名な四万十川にかかる四万十大橋を渡り、田園地帯に入る。県道で新伊豆田トンネルを越えると山谷の中を下ノ加江川に沿って走る。しばらくすると海岸に出る。久百百を過ぎると土佐清水市へ、ここからはリアス式海岸を地形に沿ってくねった細い車道を点在する集落を次々と乗り越えて乗車時間一時間四十五分で足摺岬に到着した。 バス停から三十八番金剛福寺の「補堕落東門」の額がかかっている山門に入る。 石段を上がって広大な境内に本堂、大師堂、不動堂、弁天堂、多宝塔が建ち並び、大師堂と石塔を背後に大奇石と松の木が大池の前に配置され、これが池に映る姿は宇治の平等院を思い出させ、極楽浄土の姿そのものである。山門の額から明らかな様に平安の昔より、海の彼方にの彼方に観音浄土があると信じ、僧侶達が小船に乗って旅立った補堕落渡海の処点であった。 同行の三人は三十分程で読経、納経を済ませ、各々自分の今日の宿に分かれた。 小生は門前の「あしずり旅館双葉」にリュックを置き、足摺公園へ行き、灯台、椿遊歩道、ジョン万次郎の銅像等を約一時間程観光し、宿に戻った。 (常陸国住人後記) 四万十川から足摺岬は一つの観光ルートでもあります。 |
岩本寺(いわもとじ)藤井山(ふじいざん)五智院(ごちいん)、
真言宗智山派
、本尊:不動明王、
ご詠歌
:六つのちり 五つの柱 あらわして 深き仁井田の 神のたのしみ 前後の札所、36番
青龍寺
および38番
金剛福寺
との距離が遠く、
四国八十八箇所
巡礼
の
遍路
は当寺で一泊することが多かった。
空海
(弘法大師)の七不思議伝説が伝わる。 寺伝によれば
天平
年間(
729年
-
749年
)に
聖武天皇
の勅命を受け
行基
が開創した七福寺が起源であるという。
弘仁
年間(
810年
-
824年
)に
空海
(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺へと発展させ、五社寺にそれぞれ本尊を安置したという。
天正
年間(
1573年
-
1592年
)に兵火によって焼失するが、一条氏によって再興し現在の名称に改められる。
明治
初期には
廃仏毀釈
により廃寺となるが、明治22年(
1889年
)に復興され、現在に至る。 金剛福寺(こんごうふくじ)。蹉?山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)
真言宗豊山派
、
本尊
:
千手観世音菩薩
。
ご詠歌
:ふだらくや ここは岬の 船の棹 取るも捨つるも 法のさだやま 境内には亜熱帯植物が繁っている。
足摺岬
の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、刀の石、亀呼び場、竜橙の松、竜の駒、名号の岩の「
弘法大師
の七不思議」の伝説が残されている。 山号の文字「蹉」も「?」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。 寺伝によれば、
弘仁
13年(
822年
)に、
嵯峨天皇
から「
補陀洛
東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面
千手観世音菩薩
を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が
唐
から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。 歴代
天皇
の祈願所とされたほか、
源氏
の信仰が篤く、
源満仲
は
多宝塔
を寄進、その子
頼光
は諸堂を整備した。
平安時代
後期には観音霊場として信仰され、
後深草天皇
の
女御
の使者や
和泉式部
なども参詣している。
室町時代
には
尊海法親王
が住職を勤め、
一条家
の庇護を受けた。
戦国期
に一時荒廃したが
江戸時代
に入っても
土佐藩
2代藩主
山内忠義
が再興した。 |
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