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四国88箇所歩き遍路(第一回—その12) 第十ニ日目(四月二十六日) (四十一番龍光寺から四十三番明石寺まで 徒歩距離16.4㎞ 松山サンルートホテルで一泊) 素泊まりホテルに宿泊した為、朝食用おにぎりとお茶を宇和島駅の売店で購入し、宇和島始発窪川行きJR予土線七時十五分出発。 車両二両で六人の客が乗り、ワンマン気動車である。車中でおむすびを食べながら進む。しばらく進むと山地に入り光満川を中心に片側は 単線の予土線、もう片側は国道五十五号道路のみで狭い谷間を列車は務田駅に向かっている。 車窓から国道を三人の歩き遍路者が四十一番龍光寺に向けて歩いている姿が見える。ここまでの歩く時間を考えると宇和島を朝五時には 出発したと推定される。七時五十ニ分に無人務田駅に着く。 務田駅より四十一番龍光寺まで2.1㎞、小さな盆地の端の小山に寺がある。 田圃道をカエルの声を聞きながら一人歩きで二十五分程で鳥居に着く。この鳥居を潜り石段を登り中間に本堂、大師堂があり、さらに石段 を上がった所に稲荷神社がある。 (ここが昔の本堂です。 常陸国住人注釈) 明治時代以前の神仏混合の姿を今まで残している珍しい寺である。小生は中間の本堂、大師堂で参拝し、次の寺へ進む。龍光寺の石段 を下る途中より墓場の横を通り、裏山を越える。 少し歩き遍路道を歩き、車道に出て2.6㎞先に四十二番仏木寺へ足を進める。 仏木寺は家畜の加護仏として信仰を集めている。 仏木寺から四十三番明石寺まで10.6㎞あり、途中に標高480mの難所歯切峠がある。 仏木寺から2㎞程車道を進むと歯切橋となり、この辺りから急坂になり3.1㎞地点に歯切峠となる。途中鉄鎖につかまりながら登る。杉の 木の根が出ていたりしていて大変歩き難い。 途中で三人の逆打ちの遍路に出会う。時々木の枝に「南無太子返照金剛」とか「もう少し頑張ろう」と書いた布切れが吊るされていて励み になる。 鳥のなき声も水の流れる音も風の吹く音も無く、ただ静寂な杉林の中を一人歩く。やが て下りになり、6㎞地点にある広川を渡り国道二十九号線を広川に沿って進むと二時間二十分歩いて明石寺に着く。 明石寺は標高370mの高台にあり、石段を登って本堂、大師堂に着く。 この寺の御本尊は千手観音菩薩の化身である女が大きな石を持ち上げたとの伝承から地元の人達より「あげいしじ」と親しみを込めて呼 ばれている。 山門の横より歩き遍路道のマークに従い、裏山を越えて卯之町の駅へ向かって下る。 途中町並みは江戸時代の宿場町の名残がある白壁、格子のある古風な家が続き、有名な学者の高野長英の家等があった。 卯之町駅の食堂で美味しい、うどんを食べ卯之町発十四時十分発、松山駅十五時十三分着のJR予讃線特急「しおかぜ二十ニ号」で松 山へ。 第十三日目(四月二十七日) (松山駅より日立へ) 松山駅よりリムジンバスで松山空港へ、全日空松山発十時五十五分羽田着十二時二十分定刻に到着。羽田で昼食を取り、十四時羽田 発の高速バスで日立に帰る。 (常陸国住人追記) 私が四国へ行った時は、明石寺を参拝しています。下記をご覧下さい 四国の旅(その4) その十一 へ 2のその一 へ |
ご詠歌:この神は 三国流布の 密教を 守り給はん 誓いとぞ聞く 寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで開基したという。 神仏習合の寺として、三間の稲荷として親しまれた。神仏分離で旧本堂は稲荷社とされ、現在の本堂は新たに建立されたものである。 佛木寺(ぶつもくじ)一王果山(いっかざん)、毘盧舎那院(びるしゃないん)、真言宗御室派 、本尊:大日如来 ご詠歌:草も木も 仏になれる 仏木寺 なを頼もしき 鬼畜人天 大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。 牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。 鎌倉時代は宇和島領主西園寺氏の菩提寺として栄えた。弘法大師像は正和4年(1315年)十月五日開眼」の胎内銘が入り、銘入りの大師像として日本最古のものといわれている。 本堂は享保13年(1728年)に、吉田藩主伊達村賢が建てたものである。 明石寺(めいせきじ)源光山(げんこうざん)、円手院(えんしゅいん)、天台寺門宗、本尊:千手観世音菩薩 ご詠歌:聞くならく 千手の誓ひ 不思議には 大盤石も 軽くあげ石 寺伝によれば6世紀、欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建したという。天平6年(734年)に寿元行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)弘法大師(空海)が再興したという。 (Wikipediaっより) |
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