このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
多摩川の渡し |
多摩川の渡し
登戸の渡し
多摩水道橋
初代 多摩水道橋の碑
明治13年測量 2万分の1津久井往還の多摩川を渡る渡し場で古くはここも大山道の一つであった。渡船場は古地図から推定すると小田急線の鉄橋付近にあったものと思われる。多摩川水道橋の東京都側の所には橋碑がありかつてここに「登戸の渡し」が有った事が記されている。
宇奈根の渡し
東名多摩川橋 | 明治13年測量 2万分の1 |
宇奈根は多摩川両岸にその地名が有り多摩川の流路の変化により生まれたものである。飛び地となってしまった事から必要となった渡しで住民の足として活躍した。宇奈根の本村は世田谷で川崎側が飛び地であった。。 |
二子の渡し 瀬田の渡し
二子の渡し碑 二子側 | 二子の渡し跡碑 世田谷側 |
二子の渡しは大山道、現在の国道246号線に相当する多摩川での渡し場である。大正14年の二子橋の完成でその役目を終えている。この街道は厚木街道とも呼ばれ古くは鎌倉街道中ノ道であった。川崎側の渡し場の碑は二子橋を渡ったすぐの交差点に旧橋柱と共に建っている。また世田谷側は大山道旧道近くの川沿いの道付近(玉川1-7)に建てられている。 瀬田の渡しは昭和2年発行5万分の1の「東京西南部」に瀬田(二子)渡として記載されている。 | 明治13年測量 2万分の1 |
下野毛の渡し 野毛の渡し
第三京浜 多摩川橋
野毛の渡し跡碑 世田谷側野毛の渡しは世田谷の野毛と川崎の下野毛を結ぶ作場渡しであった。ここも多摩川の流れの変遷により分断されてしまった土地であった。渡し碑は世田谷の野毛2-5の駐車場の片隅に建てられている。渡し場があった上流には第三京浜の多摩川橋がある。
明治13年測量 2万分の1
等々力の渡し 宮内の渡し
多摩川 渡し跡付近 | 等々力の渡し跡碑 世田谷側 |
等々力の渡しは江戸期から明治大正と利用された渡し場である。ここも多摩川の氾濫により分断された土地で川崎側の等々力が飛び地となってしまった。神奈川県側の等々力は明治45年に東京都から神奈川県に編入されている。渡し碑は世田谷・玉堤2-9の道路脇に建てられている。 宮内の渡しは1916年大正5年に出来た比較的新しい渡し場である。宮内の住人は無料であったという。大正14年二子橋の開通で客は激減し、昭和10年の丸子橋の完成でほとんど利用されなくなってしまった。 現在でも東急ゴルフ場の渡しがあるが位置的には宮内の渡しとほぼ同じ場所にある。 上記から判断すると等々力の渡しと宮内の渡しは別物という感じであるが大正期の地図から見ると宮内の渡しから続く世田谷側の道は渡し碑のある場所と同じであり二つの渡しは同じ場所にあった渡しと思われる。世田谷の呼び名が「等々力」で川崎のよびなが「宮内」であったという事であろう。等々力の渡しは江戸期から続き、宮内は大正の新渡しとなっているが中断していたものが大正期に復活したと思われる。 | |
昭和6年発行 2万5千分の1 | 東急ゴルフ場の渡し |
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