このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


東濃鉄道駄知線・廃線跡を歩く


下石〜東駄知/ 土岐市〜下石


その2・下石〜東駄知
 下石を過ぎると駄知線跡サイクリングロードは進行方向を東に変え、同様にこれまで並行して いた県道19号線とここで別れ、今度は県道66号線に並行して駄知へ向かう。

←ここで県道19号をまたいでお別れ。歩道橋は駄知線踏切の跡
県道19号を横断すると、頭上に橋脚が現われる。これは、この地域の交通事情を改善するため、 現在の県道66号線を造った際に、駄知線の線路をまたいだ陸橋である。駄知線の送電線を支えた 部品も確認できる。


←駄知線跡をまたぐ、県道66号高架橋
 これを過ぎると下石町の集落からはずれ、家もまばらなのどかな風景になる。この先、山神駅まで緩やかながらも長い上り坂に入っていく。

←下石小学校付近
(↑左・県立土岐紅陵高校、中・切り通し、右・法面)

 南側に土岐紅陵高校が見えると切通しに入る。下石〜山神間は少し距離があるが、線路の目の前に高校があるのに、最後まで駅は設置されなかった。中小私鉄なら利用者確保のために設置するものだが、なぜ設置 しなかったのかは疑問だ。やはり、貨物輸送がメインだった性格なのだろうか。このあたりには、信号機の土台跡と見られるものや、法面にはレールも見られ、駄知線が走っていた頃の遺構を確認できる。
(↑左・土岐市勤労青少年ホーム前、右・山神駅手前、左側の野原が線路跡)
 土岐市勤労青少年ホームの前で、サイクリングロードは再び途切れてしまうのだが、 道なりにまっすぐ駄知線の跡は続いている。小さな坂を登ると、山神駅跡にたどり着く。
(↑左・山神駅ホーム跡、右・山神駅東橋台跡)
 山神駅は駄知線の駅では最も標高の高いところにあった。山神集落からはずれた所に位置していたので 旅客量は駄知線で最も少なく、貨物取扱量も少なかった。山神駅東には橋台跡が良好な状況で残っている。
(↑左・自然に帰る駄知線線路跡、右・日帰トンネルへ向かう橋梁がこの頭上にあった)
 これから先に25パーミルの急坂や日帰トンネルがあるのだが、ここに電車が走らなくなって、すでに30年近く経っており、駄知線跡も自然に帰っていた。日帰トンネルの下石側は現存している(駄知側は道路建設のため消失)はずなのだが、付近は私有地なのか「無断入山禁止」の立て札もあり、取材困難な状況であった。かつて、下石町の日帰川に沿ってアプローチをかけたこともあるが失敗している。駄知町側から山を越えてアプローチを図ったという報告を瑞浪市在住の方からメールで戴いた。いずれ、アプローチしてみたい。
(↑左・駄知町内の線路跡、中・駄知駅跡、右・東濃鉄道土岐営業所)
 駄知町へ入ると、三たびサイクリングロードが現われる。これを少し行くと大きなバス車庫がある。これ が駄知駅跡である。ここは駄知線時代から車庫として機能していたため、当時の建物らしきものが現存し ている。なかにはレールが現存する建物もあるという。敷地の最奥部に東濃鉄道バスの土岐営業所がある が、この建物が駄知線当時のものかははっきりしなかった。駄知駅は地元住民には「西駅」と呼ばれ、現 在も“西駅”という通称地名が残っている。駄知駅は行き止り式の線路配線であったため、終着駅・東駄 知へ行く場合は、一旦山神方面に戻ってから東駄知へ向かう、スイッチバックを必要とした。
(↑左・駄知町内の廃線跡、中・県道66号線を横断する廃線跡、右・駄知JA駐車場)
 駄知は建物が密集した集落のため、集落を大きく半周し、家と家の間を縫って走った。駄知町内の廃線跡 はサイクリングロードとして整備されている。幹線道路である県道66号線を2度横断する。いずれも廃線 跡に歩道橋があり、(偶然なのか?)東濃鉄道のカラーであるライトグリーンに塗装されている。しかし、 終着点の東駄知駅の位置は分かり難い。初めてここを訪れた者はサイクリングロードの終点を東駄知駅と 勘違いしやすい。JA(農協)の駐車場になっており、すぐ脇に立つJAの正面玄関が駄知線の方向(映像で いうと駐車場側)を向いていることやホーム跡かと思わせるものがあるからだ。しかし、ここだと駄知線 の屋台骨を支えた貨物輸送の搬入・搬出スペースが無いことが決定打となり、ここが駅の位置ではないこ とがわかる。
←サイクリングロード駄知側終点。
 では終着駅・東駄知駅はどこにあったのか? 実はここから東へ100mほど行ったところにあり、現在はバ スが発着する「東駄知」バス停となっている。信号の角にあり、バスが転回できるほどのスペースがある のでわかりやすい。じゃそ の間は? というと、さきほどの遊歩道終点から東駄知駅までの廃線跡及び東駄知駅敷地のほとんどは、地 元の陶磁器会社に売却されており廃線跡やホーム跡は跡形も無く消えているが、住宅地図でこの陶磁器会 社敷地と東駄知バス停のスペースを合わせると、この区間の廃線跡及び東駄知駅の全貌が分かる。広大で あった駄知駅に比べると、終着駅・東駄知駅はこじんまりとした駅である。この辺りは駄知駅の「西駅」 に対して「東駅」と呼ばれ、現在も通称地名として残っている。

 駄知〜東駄知間はスイッチバックを必要とし線路も駄知の街を大きく半周したが、両駅の位置は徒歩10分 ほどで移動できるほどの距離だった。貨物輸送が衰退してからこの区間は特に利用が少なく、1972年の水 害で運休する直前にはこの区間の廃止が計画されるほどだった。したがって、土岐市駅から下石経由の駄 知線代替バスも駄知を終点とするバスが圧倒的である(駄知にバスの車庫があるのが最大の要因であろ うが)。現在土岐市駅から下石経由で東駄知までやってくる駄知線の遺志を受け継いたバスは、1日1〜 2本しか運行されておらず消滅寸前である。

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