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8.第一通洞南口(標高1,110m)33°51'29.51"N133°19'51.08"E
この附近一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの附近から始まった。明治9年には嶺北角石原からの通洞が代々坑に貫通し
、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1.020mにおよぶ水平坑道が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平へ移るまでの30年間、
第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、
はじめて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の拠点東延時代の一翼を担っていた。
往時はこの谷にトラス橋が架かり高橋精錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅を運んでいた。
右の水路に沿って登ったた所が東延斜坑になる
第一通洞南口(代々坑)の内部 今は倉庫代わりに使用している様だ 写真中央右手に第一通洞南口がある
東延斜坑跡 33°52'27.88"N133°19'6.64"E
フランス人、鉱山技師ルイ・ラロックの進言により、各水平坑道を縦に結ぶ運搬坑道として明治9年(1876)7月に着工、同28年(1895)1月に完成した。
49度の傾斜で北より東35度30分の方向に526M掘り下げて八番坑道(第3通洞)に達している。
この斜坑の完成により坑底の坑水は小足谷に排出され、各坑道からの鉱石は蒸気駆動の巻揚機で斜坑から搬出されて、
別子の採鉱量は飛躍的に増大し、東延は銅山の中心地帯となり、第一通洞南口から下の高橋にかけて選鉱場や多くの焼鉱炉が並んでいた。
東延斜坑の排水口内部 数メートル上にある排水路入り口
かなり大きな排水口で高さ2m以上あり、内部は排水によってかなり変色している。奥までは怖くてとても無理
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