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7.大山積神社跡 33°51'14.83"N133°20'23.25"E
元禄7年大火の後、歓喜間符の隣にあった勘場がここに移され、明治12年に重任局と改称された。明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指令所として重要な位置を占めていた。
火災の後重任局は木方に移ったが、その跡は元禄4年より銅山の鎮護(ちんご)の神として奉られていた大山積神社が、対岸の延喜の端(はな)から遷座(せんざ)した。
また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行されていた。
左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の、遷座と同時に,その跡が相撲場となり、5月の山神祭りには大いに賑わった。
下方一帯は目出度町(めったまち)で商店の他に料亭や郵便局・小学校なども軒を並べ、対岸の一段高い所には住友病院もあった。
蘭塔場と木方展望 33°51'33.76"N133°19'34.12"E
真下に見える岩山の石囲いが蘭塔場である。後ろの谷間には木方役所があって、その左の斜面では無数の焼窯が年中白煙を吐き、
右の山側には吹方(製錬関係者)の住宅が重なるように建っていた。その手前の森が勘場で、下方の林の中には日出度町があった。
開坑以来銅山の心臓部として繁栄した。然し、銅山の繁栄には尊い生命の代償があった。中でも元禄7年(1694)に発生した大火災は、
山方の元締めであった杉本助七をはじめ132名にのぼる焼死者を出し、設備の大半を消失すると言う大惨事であった。
泉屋ではその犠牲者を手厚く葬り、一祠(ひとほこら)をたてて供養したのが蘭塔場で、以来、職に殉じた御霊を合祠し、盆供養を欠かしたことがない。
牛車道より蘭塔場を観る 蘭塔場
旧牛車道 33°51'39.16"N133°19'28.42"E
別子山目出度町(めったまち)〜新居浜口屋 全長約28km 牛車道開削に要した総工費は、当時で約10万円。現在の通貨価値で換算すると、約30億9千万円にもなる(別子銅山のあゆみより)
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