このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


5.黒橋 33°51'17.06"N133°20'8.55"E


高橋精錬所

対岸の高い石垣は高橋精錬所跡である。 この石垣は更に300m上流まで続いているが、この対岸には明治20年代になって
建設された洋式溶鉱炉(左)と沈殿工場(正面)があった。明治28年から政府は環境問題に規制を設け、           
製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで精錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に     
鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、
暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。                
正面には沈殿工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、    
明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時移転していた。    





案内地図には石積みの橋と記したが暗渠の一部でした

   



ダイヤモンド水  33°51'18.42"N133°19'53.47"E

古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879)頃この対岸に洋式の溶鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。
ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床も他にももう一層ある。金鍋鉱床と言うのを探し当てる為にボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行なった。
予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングと言う事故が起きてロットの先端部分が、ねじ切れ、掘削不能となった。
ダイヤモンドを散りばめた先端部分が今も孔低に残っているので、誰言うことなくダイヤモンド水と呼ばれるようになった。明治10〜20年代にかけて対岸の
絶壁の上に焼窯と言う鉱石を焼く所があって、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、溶鉱炉に入れて粗金を採っていた。最盛期には
この辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫がひしめいていた。                                                         

  ここは銅山峰までのはぼ中間地点に当たるため休憩にぴったりの場所。なんと言っても常時噴出している地下水が美味しい 最高!

 

トラス橋の焼鉱窯群

この辺りの地名はトラスバシという。正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。
これをカラミという。カラミがあるということは、こにも精錬所があったという何よりの証である。このように別子銅山では
古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を
交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。
続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉(まぶきろ)に入れて淘汰(とうた)すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅(あらがね)となる。          

トラス橋 33°51'20.53"N133°19'52.10"E

 


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