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5.小学校と測候所跡 33°51'17.44"N133°20'15.14"E
政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられるようになった。これを受けて別子銅山では明治5年(1875)に勘場の下方、
通称目出度町に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、
さらに明治22年9月には、ここに私立小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。 更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。
最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員7名であった。学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。
小学校跡33°51'17.44"N133°20'15.14"E
この石垣の上部に測候所が在った
土木課(劇場)と山林課 33°51'17.59"N133°20'12.37"E
別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと、採鉱・製錬の生産部門と平行して、それを支える部門も増強されていった。
つまり、製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、
ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。
明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が土木課になった。
土木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。
明治23年5月の別子銅山200年祭には、ここを劇場として解放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。
以来、ここが毎年5月の山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた。
上の写真と同じアングルで撮ってみた
この付近で平坦な土地としては最大の広さを誇る
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