このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

4.小足谷集落跡と醸造所跡  33°51'15.07"N133°20'24.16"E(グーグルアース)

この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前と
その対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。そして、この先の接待館地並みから上は
傭人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人の住む下前集落とは区別されていた。右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、
煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残っている。上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。 別子銅山で酒の醸造を
始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期には年間100キロリットルも製造していた。銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった。 (案内板より)

 

小足谷接待館と傭人社宅 33°51'16.45"N133°20'22.46"E

明治期に入って急速に鉱業の近代化が進なかで、それに伴う各界の要人が頻繁に来山するようになった。そこで明治34年(1901)一般人が
経営していた泉亭を改装して別子接待館として営業を開始した。因みにこの年10月には住友家15代家長(友純公)が宿泊されている。
この煉瓦塀も恐らくその時点で築かれたものであろう。この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡あh、歴代の採鉱家長が
住んでいたと言われている。その隣が醸造課長宅で、これより、小足谷に沿って20棟ほどの傭人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。
また、醸造所に向けて下がるところの住居跡は明治19年に開校した小足谷尋常小学校のあった所で、明治22年黒橋に新築開校した
別子尋常小学校に統合されてからは、改装されて教職員の住宅になっていた。

当時の接待館

 






                                                           
 


善次郎の休日 3.沈殿池                          善次郎の休日                       5.小学校・劇場跡 善次郎の休日

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください