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9.東延斜坑 33°51'30.76"N133°19'51.69"E
この辺りは別子鉱床の東の端に当たるが、地下深部に三角(みすま)と言う所があり、そこからはとてつもない立派な鉱石が
無尽蔵に眠っている事が以前から分かっていた。明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山技師ルイ・ラロックは、
この一点を選んで斜坑を堀、三角の富鉱体に到着させ、その間に階段状に水平坑道を開削して鉱床に逢着(ほうちゃく)させる。
採掘した鉱石は斜坑に集約して出鉱するという 新生別子鉱山案を提起した。ただ、当時日本の鉱山では本鋪(ほんじき)という
大きな坑道でも5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度であったが、ラロックの東延斜坑は幅が20尺(6m)高さ9尺(2.7m)もあった。
しかし、当時の住友の実力者広瀬宰平(さいへい)が、敢えてこの大起業に挑んだのは、彼が11歳で別子銅山に奉職し、
三角の大富鉱体を見ており、三角に賭ける山内の熱い空気に触れていたからであろう。
測候所跡 学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。
この基礎は巻き上げ機のロープを支えるガイドローラーが在ったのでは
レンガ積み基礎の直ぐ後ろに斜坑と思われる坑口が開いている
この穴に落ちたら最後二度と地上には戻れないだろう
レンガ積み基礎から一段真下に下がった所に機械室跡がある 機械室の内部
下の写真は立て坑跡 付近にある坑口跡
別子本鋪(じき) (標高1.210m)
本鋪とは一山の主たる生産坑の事である。元禄4年5月9日幕府の稼行(かこう)許可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取り掛かった。
その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を捕り出すまでの工程を組み込む為に、ここに中心となる坑道を開けることにした。
前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭田向重右衛門が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符である。
重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。
背後の平坦地には鋪方(しきかた)役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計って買い取り、砕女(かなめ)小屋へと運ばれた。
上方一帯、ヒノキの木立の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。
尚この坑口は2001年に復元された 左歓喜坑 右歓東坑
歓喜間符(歓喜坑)の由来は、高品位の鉱床を確認できた当時の人々の格別の喜びを示していると言う事である
坑道の内部
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