このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  毒ガス貯蔵庫跡

まず目に付いたのは周囲の景観と余りにも違った異様な光景

旧陸軍は、1929年から終戦まで、この島でひそかに毒ガスの製造を行なっていました。主な製品はリペサットとルイサイトで、
いずれもびらん性ガスと呼ばれ、皮膚をただれさせる性質を持ち、年間生産量は1200トンにも及んだと言われています。
第二次世界大戦が終わると同時に進駐してきたアメリカ軍は、この島にあった毒ガス工場や製品を、1946年から約1年間かけて、
薬品で消毒したり、太平洋の底に沈めたり、火炎放射器で焼いたりして処分しました。この建物は、それら毒ガスの貯蔵庫の一つでした。
コンクリートの内壁が黒く焼け焦げているのは、当時、火炎放射器で処分した跡で、そのすさまじさを物語っています。環境省(案内板より)


島内のいたるところに住んでいるウサギ。大変人懐っこく、気が付かない間に足元にまとわり付いて来るので踏まないよう気をつける。

 

北部砲台跡

元、砲弾などを入れていた施設に毒ガスや材料などを入れていたらしい。
この光景を見、脳裏に浮かんだのは大量殺戮をしていたドイツアウシュビッツ捕虜収容所。
そう思ったのは私だけではあるまい。毒ガスだけになんとも不気味な光景。


内部

煙道口跡

 

  

北部砲台跡

ここは日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台の跡です。大久野島内には北部・中部・南部の3箇所の砲台が設置され、
合計22門の大砲が置かれていました。ここの跡地には、写真のような12cm速射加農砲が4門置かれていました。                   (案内板より)

 


トンネルを中央に西側と東側左右二箇所に分かれている。左の写真は西側より右は東側より西側を覗く

 

 

なぜ地面より一段低い位置に造られたのか…詳しい説明が欲しい

 
既に水没している箇所もある

煙突でもなく排気口?

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