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      嶺南のふるさと 中之川

       水車の廻る桃源郷

         平成11年2月20日 記          石川美代子

     三椏の花が咲いたと故郷便り 昔懐かしあの中之川


 北海道北見市に移住した川口虎光さんから頂いたお便りや短歌を読んでいると、幼い日のふる里が懐かしく甦り、あの川や橋を巡って見たくなりました。
 まず、黒蔵のこうやけ淵の観光橋。若葉の橋。広い墓地の横を通って進むと砂利道に出ます。昭和4年、全国的に不景気が続いたことがあって、国が地域の労働者を救済する事業として道路を造ることになり、東南米を配給されました。そして山奥の中之川にも広い道路が造られました。
 土地の人達は、山峡にポッンと幅広い道路が出来るのを見て、不思議に思ったものでした。けれども正月・彼岸・お盆などの行事があるたびに村中の人が、この道路を通ってお墓参りに行きました。幼い私は親と歩ける嬉しさと、この広い道路が楽しくてスキップしながら歩いたものでした。
 栃の向い橋の川向こうに人家が2軒あり、橋のたもとに疫病舎がありました。
 昭和4年に労働者救済のために造られた約700mのこの道路は、昭和34年になって林道が間通した時そのまま利用され、始めて人々の役立つ道路となりました。
集落の入り口に、ありのき橋があり、この橋から西の谷林道を進むと、金砂村役場や佐々連鉱山にも行けます。
 中の川と西の谷川との合流点では川幅が狭まり、幅一間、長さ一間半程の滝となって流れています。此処からの展望は、上浮穴郡美川村の御三戸(みみど)を小さくしたような景観です。
 ありのき橋からの眺めは、左手の方に大きな水車が架かり、とても見事なものでした。
そこから集落の人家・田畑が扇子を拡げた様に拡がっています。
         昭和7年頃
         絵は中之川  野字 
         今も尚瞼に浮かぶ我が古郷
         昭和60年11月10日
         北海道北見市相ノ内町にて
                川口虎光 82歳
 

 その昔、敵が攻めて来て戦った時に血刀を、この下で洗ったという鞘洗い橋。
この戦いの時、黍(きび)の穂を刈り取った後の黍殻が、畑にあるのを踏んで滑って敵に討たれたので、村では今も畑に黍殻を置いてはいけないという言い伝えがあります。

 次は 欄干に色が着いていて、粋だからと言うので名付けられた文明橋。

その橋のたもとには猫柳が群生して、早春の光を浴びて銀色に光るさまは、子供心に美しいものでした。
 次は阿弥陀さんが釣りをしていたとか、底知れない深さの青黒い水を湛えた阿弥陀。
幼い私達が泳いでいると、近くのおじいさんが通りかかっ
て「お前等 ここで泳ぐなよ。
おじいは若い時泳いでいたら『えんこ』が
居って、足を深みへ深みへと引っ張られて、そのうち水が粘うなって、もうちょっとで死によった。這い出しかねたぞ。」と言ったのを覚えています。
  『ムツゴ』と言って海の『キスゴ』に似た魚が群れ泳いでいて、裸の体をコツコツつつくのが面白くて、川魚とたわむれ遊んだことを懐かしく思い出します。

 小高い丘の上に小学校が建ち、その近くに警鐘台がそびえていました。

        大正時代の中之川小学校
            思い出
           川口虎光

左の山には金比羅さん、右手には鎮守の森。新田神社前の宮川橋。その昔、この橋を境にして上組と下組に分かれ、大きい源氏蛍と小さい平家蛍が戦争をして、真昼のように明るかったそうです。その翌年からは源氏蛍が姿を消したという伝説も残っています。 少し行くと旧家の前の 関の前橋川も広くて、夏はここでもよく泳いで遊びました。産卵斯には『アメゴ』がスイスイと数知れず泳いでいました。 支流の土橋を渡ると、大きな田圃が何枚かあり、向かい側の断崖の上には数本の紅葉が繁り、秋には目も醒めんばかりに、川面に映えて、二重の美しさでした。
堀田橋を渡れば佐々連鉱山へ通じていました。

 近くにお稲荷さんのケヤ木の大木は、空を覆わんばかりでした。次は中の川と名のつく中の川橋。その次は夫婦が袂と懐(ふところ)に石を入れて、身を投げたとかで広い深い夫婦(みよと)淵。
最後は お鶴さんが流されたとかで名付けられた鶴橋を渡って川向かいをしばらく行くと、やっと私の懐かしい実家があります。 それからは、支流の谷川の土橋が何本か架かって、土佐方面へとぬけています。大昔には上分からの道がなく、土佐からの道があって人が住み着き、四国山地の麓から栄えていったそうです。杉林の中に広い田圃や畑があります。御子屋敷(みこやしき)という地名が残っており、お墓も残っています。祖祖父が子供の頃、御子屋敷にはおじいさんが住んで居たそうです。
明治の頃は中之川・西の谷・黒蔵合わせて百戸余りの人家があり、自給自足に近い生活をしながら、ひっそりと肩寄せ合って住んでいました。明治から大正にかけて北海道や、新立村や、上分町、金田村へと離散して五十戸程になりました。今思うと三世代くらいの家族で、猫の額程の田畑では生活出来なかったのでしょう。何処へ行ってもよそ者として苦労したと思います。村人達は、山や川の自然の恵みを有り難く頂きながら、もくもくと働いたことでしょう。長閑(のどか)に廻る水車は十基程ありました。大国主命(オオクニヌシノミコト)のように、大きな穀物の袋を担いだおばさん達が、往来していたのを思い出します。

 千年の歴史を秘め、時を経て流れるふるさと中之川の水は、永遠に吉野川へ海へと注ぎ続けることでしょう。





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