このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

     嶺南のふるさと 中之川


    移動製材の思い出

     平成10年3月10目 記                  石川美代子



 私のふる里は、中の川の瀬音と鳥の声だけの静かなたたずまいの山里である。時折風にのって、シヤーン・シヤーンと音が聞こえてくる。それは移動製材からの音である。「危ないきに行くなよ」の母の声を背に、遊び相手のいない私は、おきろく谷へ走り出す才の女の子だった。分程も坂道を登り古いお墓を越えると、その音は耳をっんざくけたたましい音に変わる。
 藪の中からオカッパ頭の小さな顔を出すと、仕事中の人達は今日もまた子狸が出てくる様な私「危ないから近寄るなよ。]と大声がとんでくる。
 バッタン・バッタンは厚い広いベルトの継ぎ手が合って出る音だ。タン・タン・タンは発動機。ジヤーン・ジヤーンは大きな丸鋸が廻って木材を挽く音だ。
熟練した腹押しさんが木材の形状を見ては台に乗せ、腹に当てがい全身で加減を取りながら、正確に板に加工して行く。
 ある時、大木を挽き始めると馬力が掛り無理がいくのか、ジヤーン・チャリンと長いベルトが切れて、帯の様に跳ね飛んで止まった。怖いと言うことをまだ知らない私は、二タリとして近寄って行くと、「こうなるから危ないんじや。」と鉄台に乗せて、ムカデの様な継ぎ手金具を出して打ち付け繋いでいる。片方では、発動機の冷却水がぐらぐらと煮えたぎるタンクのそばで、缶の中から粘いもの(グリス)を出して車軸に付けている。そばでじっと見ている私に「おじょう 水飴やろうか 旨いぞ。」と竹べらにごっそり掬って差し出せば、こちらも手を出したくなる。人っ子一人居ない山の中に、毎日々々覗きに来る私が、きっと可愛いい我が子を思い出させるのか皆、言葉は荒いが優しい人達だった。
 それに、小さな私は「おじょう」などと言う言葉を聞いた事がない。は美代子、母は夫代上、姉は夫代ちゃん、兄は美代べえ、おじようとは何のことかしら…………………。少し大きくなって本を読んで、良家の子女、お坊ちゃん、お嬢ちゃんと呼ぶことが分かり、そんならあの時私は狸ではなくて、お嬢だったのかと、少し楽しい気分にさせられた。
 製材をしている5〜6人の達が、掘り立て小屋に住み込みで働いていた。母に野菜を持って行けと言われて時々持って行くと、缶詰をよくくれたものだった。嬉しくて両手でコロコロ回しながら帰り、皆で食べたが、そのおいしかったこと。
 還暦も過ぎてある病院の一室で、痛さに苦しむ主人の体を擦りながら、幼い思い出の移動製材の話をして、痛みをまぎらわせて上げたことがある。
 主人は昭和11年、三島駅前のトーヤデパートの場所にあった、高橋製作
所へ就職して発動橋を作っていた。従業員が何百人も居て、青年学校も独自に開校して勉強していたそうである。
 往み込みで働いており、朝早く天井へ上がり、ベルトの車輪の心棒に油を差す。下では先輩が焚き大をして、煙が天井を舞うため、涙の中で注油をしたものだった。
 戦時中の金砂村では、どこの部落でも移動製材により、木材の加工は常に行われていた。三島の高橋製作所からは、200kgの重さの発動橋を分解して、山道を40〜50kmも担いで運んだ。
そして傾斜地を平らにして、据え付けたんだと話してくれた。
 あの時のタン・タン・タンとバッタン・バッタンの音が懐かしいと、述懐していた。
 懸命に養生した甲斐もなく、後2ヵ月の命しかない夫が、昔を思い出し痛さの中で、昔を嬉かしみ微笑んでいた。主人とは医者の宣告通りに永久の別れとなった。月日の経つのは早いもので、もう9年になる。
 あれよこれよと思い巡らせながら、仏壇に手を合わす今日この頃である。親しい友達を誘って、長い帯鋸が廻っている製材所の見学をしてみるのも、いいのではないかと最近は思ったりもします。

            目次に戻る                          4.始めて歩いた峠道                       

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください