このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

         嶺南のふるさと 中之川 

        始めて歩いた峰道

       平成1O年3月30日 記               石川美代子

昭和16年の夏、中之川・上組の人達が土佐と伊予の県境中之川峠まで道作りに行く事になった。
 始めて行く道なのでいそいそと鍬(クワ)を肩に、鎌を腰に差し出掛けようとすると、父が「土佐峰のお地蔵さんを見て笑うなよ。笑うたら腹が痛うなるぞ」と言った。子供の頃から誰言うとなく聞いていたけれど、父はそれを思い出し、念のために注意してくれたのだろう。村では土佐峰といい、本山町坂瀬に出られるので坂瀬越えと言われている山道である。この峠道は明治の始めには、土佐街道新道と呼ばれていた。
 村の古老を先頭に15、6人で出発した。4km程行くと右に佐々連尾山が見え、坂瀬越えを登ると道は途中で分岐し、左は仁尾ケ内越えとなる。四国山脈の稜線からの水が合流して出合いとなっている。出合いでは石が削れて樋状になって流れている所がある。
 何時の頃の事なのか覚えていないが、町から水量を調べに来て「水は一升枡の中を、隙間なく通り抜ける水量」だったと母が語っていた。
 土橋を渡って坂瀬越えの道は4kmばかり、馬が通れる程の道幅であるが、曲がりくねった石ころ道であった。だんだん登って行くと水は氷の様に冷たく、宝子(たからこ)と言ってわさび(山葵)によく似た植物が密生していた。次第にせせらぎの音も低くなり、鳥の声も小さくなると官林 (営林署管轄)に入った。
 突然目の前に、屋根も壁板も濃い水色の小屋が現れた。緑一色の樹林の中で出会った不思議な存在感の光景に、目を見張ったのを、今も覚えている。営林署の山小屋とのことだった。また3km鬱蒼として昼なお暗い山道を登って行くと、そこはせせらぎの音も、鳥の声もなくシーンとした静寂さに、1人では越えられそうもない、怖さを感じる場所だった。
 見上げれば二抱えもある大木に、直径50cmもある猿の腰掛けは見事なものだった。登って腰を掛けてみたい衝動にかられたりもした。
 しばらく行くと一坪余りの大きな平石が道になっている所に出た。「ここが土佐峰の平石じゃ。もう峠は近いぞ。」古老の声がした。前方が少し明るくなって来た。
峠に立っている、苔むしたお地蔵さんに手を合わせてからニラメッコ。ミに力が入りすぎたのか片頬が欠けて窪んでいるのが、人なつっこく思えるお地蔵さんだった。誰がどの様な願いを込めて彫り、誰がこの人通りの少ない峠道にお祀りしたのかは知らないが、ここを通った山人たちは、安全な山越えを祈って、お地蔵さんに手を合わせたのではなかろうか。
 少し行くと、峠に3方土を掘って建てた避難小屋があり、中は焚き火の跡ばかり、壁板もはがして燃やした不心得者も居たようである。
 伊予側は官林で大木に育っており、土佐側は10年生位の檜が植林されていて、吹き上げる風になびいていた。
 伊予は村から11kmあまり、土佐は坂瀬まで3km程で、汗見川を下りれば吉野川と合流し、本山町の千町田で穀倉地帯で有名であった。
 明治25年生まれの父が、祖父の膝の上で聞いた話によると、伊予から土佐へ漆掻きの仕事に行って、金儲けをして帰る途中、追い剥ぎに平石の上で殺された人が居た。後曰家族から捜素願いが出され、警察官が大勢登って来て調べた結果、死体と桶は平石の道の下へ蹴落されていた。
 担い桶の底の外側へ張りつけてあった大枚40円は、追い剥ぎが体を探したが見付からず、金目のしそうな印龍、煙草人れを盗って行き、ある村で売った事から足がついて、逮捕されたとのことだった。明治の始めに生まれた古老も、平石事件の事は知っていた様である。
 昔、朝な夕なに仰ぎ見た四国山脈も、始めて歩いた昭和16年の道作りから、生活圏も変わり、峠越えをする人もなくなり、もう二度と歩く機会がない。
 昭和38年には官林の大木も伐採されて、今はどの様になっているのか知る由もないが、当時のことを思い出すと、本当に懐かしいものである。



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