このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 小学2年生の4月のある日、学校から帰ると母が妹を背負って待っていました。「佐々連尾山で皆が三椏蒸しをしているので、今からその道を教えてやるから明日学校から帰ったら、一人で妹を負いに来い。」と言いました。私は母と歩くのが嬉しくて、翌日の大変なことも理解できず、ただニコニコとして付いて行きました。1時間半程歩いて三椏蒸し現場に着きました。
 翌日はお天気も良いし、1時間程歩いて谷川で一休みしました。此処は昔、木地挽きさんが木簡を挽いていたので、木簡を略してモッカ山と言っている所です。
 向かい合った山を頂上まで登ると、晴れた日には翠波峰越しに、三島の沖の帆掛け船が見えると母が言っていた道を登り始めました。汗を流しながら官林(営林署管轄)の近くまで行きましたが、どうも道が違うようです。谷川へ駆け降りてまた登ると、前と同じ道の様に思えて仕方がない。悲しくなり汗と涙と泣き声で、向かいの山へ響く様に「お母さ−ん。」と呼ぶと、自分の声が返ってくる。大きな声を出す度に大きく返ってきて怖くなったのを覚えている。これがこだまだと意識したのがこの時だったように思う。また降りて水を飲みもう一度登って行くと、中腹に草が倒れてしおれているのが見えた。「ここだ。」と思うと嬉しくなりどんどん登って行くと、人の話声がする。やれ着いたと思うと、「美代子が来たぞ。」父の嬉しそうな大きな声がした。母は怒った顔をして黙っていた母に何か声を掛けて貰いたかったが、母は何も言わなかった。夕方着いたので怒ったのかとも思ったが、その時の私には母の心は理解できなかった。
 谷川へ顔を洗いに降りて水鏡に映った私の目は真赤に泣きはれて、顔も真赤でした。恥かしくてうずくまっていると、釜焚きをしていた人が、そんな私を可哀相に思ったのか、腕くらい大きい虎杖(いたどり)を取ってくれた。瑞々しくて甘ずっぱい昧は今でも忘れられません。
 その夜、父母は何処で道に迷ったかとも、明日も来い。とも言いませんでした。

 翌日から妹を父方の祖母の家へ預けるから、学校の帰りに寄って連れて帰る様に言われました。それから5日程経った頃、祖母が帰って来る私を待ち構えていて、指折り数えながら睨みつけて「これでは仕事にならん。」とひどく怒りました。夜泣きながら「おばあさんが怒るきにもう寄らん。」と言うと父は黙って私を張り倒しました。そして、翌日からは学校へおんぶして行く事になっのです。この様にして三椏蒸しは終わり、私にとっては長い春も終わったのです。
 それ,から1年程して父はこんな話をしてくれました。「明治の中頃の事らしいのですが、私か泣いて登った山の当たりで三椏畑の中打ちを何人かがしていると、木の葉隠れに7才位の子供の後ろ姿を見掛けたそうです。
親が先に歩いているのが見えなかったが、佐々連鉱山へでも行きよるんだろうか。」と話合ったそうです。
 山人達は狼のことを山犬さんと言っていました。昔は魔物が出るか、狸に化かされるか分からない。深い山では山犬さんの話や、物騒な話はしない事にしていたそうです。
 それから1週間後、阿波の方から大勢の人が子供を尋ねてやって来ました。官林を探し廻ったところ、ぼろぼろになった着物だけが残されていました。山犬さんに食われたらしい。阿波の何処か知らないが、上山村を越えて新立村・銅山川・金砂川・中の川を溯り佐々連尾山まで、草履も破れ素足になり、お腹も空かしていたでしょう。夜になり官林を彷うて果ては餌食となってしまったのではないかと思います。後で間けば継子で親に叱られて家を出たそうです。本当に可哀相の一言です。その話の時は私も子供だから何とも思わなかったが、今になって重ね合わせて考えて見ますと、父の嬉しそうな大きな声も、母の無言の悲しそうな顔も合点がいきました。両親ともさぞ心配しただろうと、今の私には理解できる様な気がします。
 三椏の栽培も、常畑の老朽化(輪作が不向きの作物)と、栽培農家の高齢化のため、やがて衰退して行きました。今では鑑賞用の三椏の花を見掛けますが、翠波の菜の花の様に、全山一面に咲き誇る三極の花は、本当に素晴らしい眺めでした。



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              嶺南のふるさと 中之川


         三椏(みつまた)蒸し

          平成10年4月30日 記             石川美代子

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