このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 木地師の歴史は古く、今より遡ること1139年以前の貞観(じょうがん)元年(859年)、近江国小椋郷に入られた文徳天皇の第一皇子惟喬 (これたか)親王が轆轤(ろくろ)の業を教え、隋従の藤原実秀に小椋太政大臣と名乗らせたので、この地を全国木地師発祥の地と言われています。
 だから小椋を名乗る木地師は、「御綸旨」(ごりんじ)という天子の勅許を貰い、その墨付をうけていた。  「御綸旨」は木地師にとって、山々の入山勝手、山の八合目以上の奥山の木は、自由に伐採できるお墨付であった。さらに彼らは宗門手形・往来手形・印鑑・木札などの諸権をうけて生活権をも保持していたのです。
 後醍醐天皇の第五皇子惟良親王が、琵琶湖湖西の君か畑の集落を本拠にして鑑札を出しました。それは日本全国の何処の大木でも伐って、椀や皿の木地挽きをしても好い良いという鑑札でした。
 お竹さんという 美しい奥さんを連れた若夫婦が、その鑑札を持って、佐々連尾山の一角にある断崖の前の少しの広場で働いていました。
 町へ用事があって下山するときは、椀や小皿を背負って2人で下山していました。そして生活に必要な物を買って、山へ帰っていました。
 ある時、のっぴきならない用事が出来て、夫は下山しなければならなくなりました。お竹さんは臨月のため下山出来ません。仕方なく夫はお竹さんに、よくよく気を付けるように言いおいて下山しましたが、何となく気に掛り、急ぎ用事を済ませて帰ってみました。すると、入り口の戸は破られ、小屋は壊されていた。中では無惨にも母子共々狼の餌食になり果てていました。夫は悲嘆にくれ嘆き悲しみましたが、泣きながら埋葬を済ませ、1人では仕事も出来ないので、お竹さんの形見の鏡を残して、何処へともなく立ち去ってしまいました。
 サアそれからが大変です。入れ替わり立ち代わり、色々な人が鏡を取りに来ますが、その度に腹が痛くなるので、鏡は元に戻って来ました。そして誰言うとなく、小屋周辺の山はお竹小屋と名前が付いてしまいました。
 父の知っているだけでも、一人で来た入、また二人連れで来た入、或る時は山伏姿で5〜6入が法螺貝を吹きながらやって来て、鏡を持ち帰っても また腹が痛くなったのか、鏡は直ぐに戻って来ました。
 叔父の話によると、大正5年の春のある日、近くの三椏山で仕事をしていたので登って行って見ると、真新らしい白い餅が重ねて祀ってあった。この山奥へ誰が祀ったのか………と不思議に思った。見ると鏡は断崖の岩の割れ目に差し込んであった。手に取って見ると直径20cm余りの手鏡で銅で出来ていて、面は曇って顔も映らなくなっていた。
 大正7年の秋、母が三椏の中刈をしていると、下から紋付き羽織袴姿で口髭を生やした人が、汗を拭き拭き登って来た。怖いので母は、目立つ頭の白い手拭いを脱いでうずくまっていると、お竹小屋の方へ上がって行った。丁寧にお祀をしたのか、何時間も経って下って行った。それ以来 鏡はもう戻って来なかった。
 村人達は「あの人は 神主さんじゃ……」「イヤ 石鎚山の先達だった」
 「イヤ お竹さんの夫婦の身寄りの子孫だから、腹が痛うならんのじゃ…」
と、村人は噂に噂を呼んでにぎやかだった。
 幾ら待っても鏡は返って来ないとなると不思議なもので、子供の頃に聞いた、お竹小屋の鏡の話が、つい最近の話の様に思っていたが、今では遠い遠い伝説となってしまった。
 爾来何百年の星霜を経て、風雪に曝されて小屋は無くなったが、その後奇特な人が居て祠を建てたが、それも長年月の風雨で老朽化して、跡形もなくなってしまった。
 今は誰も此処を訪れる人もなく、この伝説も風化してしまおうとしています。あの断崖もこの広場も大木に囲まれて知るすべもないが、お竹さんの魂だけが、悲惨の中に静かに眠り続けていることでしょう。




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      嶺南のふるさと 中之川


          お竹小屋の鏡


         平成10年10月10日 記            石川美代子


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