このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

明治維新後の新政府は世の男達に、丁髪(ちょんまげ)を切る様に、お布令(ふれい)を出しました。その後「ざん切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」そんな歌が流行りました。けれども私達のふる里中之川は、今の私達には想像も出来ない程、過酷な労働によってなり立つ、貧しい暮らしだったそうです。その様な訳で私の母は、山仕事と子育てとに苦労するために生まれて来た様な人で、我が子にのんびりと昔話をしてくれる事など、めったにありませんでした。
 その母が、小学生の私にこんな話をしてくれました。
 大正の中頃の事でした。軍帽・軍服に身を固めた男がやって来て、挙手の礼をすると軍隊言葉で「富郷(とみさと)から来たのであります。どんな重労働でもするのであります。日雇いに雇って貰いたいのであります。」と言いました。背負子で物や石を運び、担(にな)い桶を担ったりしてよく働くので、村人に雇われました。
 顔見知りになった村人は「あんた、名前は何と言うのかい。」と尋ねると、「自分は、伊藤倉吉・儀太郎であります。」伊藤は姓で、名前は2つあったそうですが、村人達はみんな「倉さん。倉さん」と呼んでいました。
 倉さんは、ある時土佐の国から『もっそう』という名前が付いた、弁当箱を持って来ました。檜の薄い板を曲げ、それを桜の皮でとじ付けた弁当箱(メンツともメッパともいう)でした。この弁当箱は、入れたご飯がおいしいし。暑い夏でも弁当が腐りにくいのです。村人は「これはいい。これは便利だ。」と町から買い求め、皆が便うようになりました。「便利だ。重宝(ちょうほう)だ」と 喜んで便っていましたが、何時の間にか、持って来て広めた倉さんの仇名となってしまい、倉さんのことを、『もっそう倉』と呼びました。その上に面白い人がいて、「屋倉に、茶倉に、もっそう倉」と蔭では呼んで笑いました。
 朝早くやって来て、1升炊いた麦のご飯を1度に食べてしまい、後は昼食もとらずに唯黙々と力いっぱい働くので、2日の仕事も1日で片付けてしまいました。「明日は仕事がもうないよ。」と言い「もう遅いから今夜は泊まって明日の朝帰りな」といくら勧めても、夕食もとらず泊まりもせず「富郷へ帰るのであります。」と言って帰って行きました。翌日はまた早く次の仕事を頼んだ家へ「富郷から来たのであります。」と言って1升のご飯を一度に食べて働きました。
 夜は何処で食べ、何処で寝るのか誰も知りませんでした。5里(約20km)もの道を峠を幾つも越えて、しかも夜道を帰れる筈がありません。富郷に家でもあるのかと思いましたが、富郷の人の話では「中之川から来たのであります。中之川へ帰るのであります。」と何時も言っていたそうです。何日か仕事が続いて泊まった夜は、軍服の破れをつくろっていました。いつも軍服と軍人言葉の一点張りですから、他の衣服を身に付けたことかありませんでした。
 倉さんは、何時もみんなが忘れた頃にやって来ました。「もっそう倉」が来たと伝わると、重労働のある家では競って雇いに行きました。
 大正の末頃になって、倉さんはばったり来なくなってしまいました。7〜8年もの間、近くの村々で働いた倉さんでしたが、彼が何処から来て、何処へ行くのか誰も知りませんでした。村の人達は「もっそう倉は可哀相に、兵隊ボケしたんだろうなあ。」と噂しました。
 明治37〜8年の日露戦争の犠牲者だったのでしょうか、生まれも育ちも良いのか、礼儀正しい温和な人柄だったそうです。母は話の最後に、 「日雇い殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の10日も降ればよい。」と昔の諺を付け足して言いました。
 その時は母の言葉の意味が解らない私でしたが、今思うと、当時の暮らしの切なさをひしひしと感じさせられる言葉です。新しい話もないし、読む本も少ない頃に聞いた、哀しいふる里の昔話です。



註[兵隊ボケ]とは、 長い間の軍隊生活に慣らされて、除隊になっても、普通の生活に戻れない人。

              何時までも軍人生活を引きづっている人のことです。

  




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嶺南のふるさと 中之川


     もっそう倉さんの話


    平成11年1月11日 記           石川美代子


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