このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私が70の坂を越えるこの年令になっても、心の隅に何時までも残っている幼い日の 妹との悲しさと懐かしさの入り混じった思い出があります。
 それは山里の川の流れも、小鳥のさえずりも、紅葉の美しさも目に入らないで、ただ食欲旺盛な育ち盛りの8才の頃のことでした。曇り日和の寒さを少し感じる午後少し遅くなって、何日も前から行きたかった栗拾いに、風邪を引いている1才の妹美智思を背負って出掛けてしまいました。何百年も経った石積みのお墓が並ぶ墓地の怖さも我慢して行きました。
 森の中は薄暗く栗の木の根元に妹を座らせると、私は「動くな。動いたら谷底へ落ちるぞ。」と言い聞かせて下へ降りて拾っていました。しばらくすると上の方で妹の咳が「コンコン」と聞こえました。私は心配になって上がって行き、谷底へ転げ落ちたら死んでしまうと思い、背負って来た 『すき』で妹のお腹が凹む程力いっぱい栗の木に縛り付けました。もう栗は鼠に喰われてしまい、あまりないので何時間探したでしょうか。ふと気が付くと辺りはもう薄暗くなっていました。慌てて上がって見ると、妹は泣きもせず震えていました。怖くて怖くてどんなにして走って帰ったか覚えていません。
 帰って見ると心配していた母が、外で待っていました。「風邪を引いた子を連れて、日が暮れるまで何処へ行っとったんか。」と母は私を叩きました。妹はびっくりして大声で泣き始めました。私も泣きたかったのを覚えています。妹はようやく背中から下ろされて、泣きじゃくりながら母の乳房を含んでいました。
 夕飯が終っても、母は怒っていて栗を茄でてくれませんでした。自分でぼそぼそと洗って茄でました。父も母も兄も無言で私の栗を食べてはくれませんでした。1人で食べましたが、辛くて美味しいとは思えませんでした。
 妹は5才の時、ふとした病が元で遠い国へ旅立ってしまいました。幼くして死に別れた妹との思い出が、こんな悲しいものなのです。風邪を引いているのに身動きも出来ない程に縛り付けて、日が暮れるまでも置き去りにしたことが、何時までも悲しく心に残りました。
 20才の時、姪の初恵を背にして、嫌な思い出の栗林を見たくなり、行って見ました。栗の木は、見ればほる程根元が大きく感じられました。この木の根元に縛ったのかと思いながら、じっと見つめていると、あの時の様に縛られて泣きもせず座っている妹が、幻となって私の前に姿を見せた様に思えました。
 ハツと我に返った私は、早く初恵を連れて帰らねばと、後から何かに追われるように怖く、藪の中を夢中で走って帰りました。兄も義姉も居なくてほっとしたのを覚えています。あの時もし私1人だったら、呆然として1晩中山の中を彷徨(さまよ)い続け、近所の人達に「あの子は狸に化かされたんぞな。」と言われる事になっていたかも知れませんでした。
 26才の時実家へ泊まりに行った私に、母が「あの栗の木はもう伐ったよ。」と言いました。
 あれ程悲しい思い出の場所へ、私はまた我が子陽子を背負い道なき道や藪を掻き分け掻き分け自問自答しながら歩いて行きました。
 古いお墓は相変わらず薄暗くて気味の悪いものでした。栗は伐られても、大きな切り株が残っていました。辺りは明るくなっていて、谷底から水音がかすかに聞こえ、川向かいの5〜6軒の人家からは、鶏の鳴き声がのどかに聞こえて来ました。
 これで不惘(ふびん)な妹の事を少しは忘れられるかと思いました。
 現在は7年に一度くらいの割で故郷の親戚へ用事があって行きますが、道路を走る車の中から、思い出多いオキロク谷や山々の杉林を眺め、昔を懐かしみながら通っております。


[すき] 子供を背負う布。しごき帯で代用することもある。




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嶺南のふるさと 中之川


      栗の木と妹の思い出


    平成10年12月10日 記              石川美代子

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