このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の父 鎌倉市太郎は、明治25年5月 宇摩郡金砂村中ノ川で徳太郎の6人兄弟の3男として生まれ育ちました。
 17才の頃から馬追いを始め、中ノ川から上分まで往復50kmの道程を、朝は4時から夜遅くまで歩いて働きました。
 夜はどんなに遅くなっても わらじを作り、道中は馬に荷を付けて歩くが、上分から登って来る馬は50頭余りで、こっちは1頭です。「道が細いので、全部通り過ぎるまで 避けて待つのはとても辛かった。」と、話してくれたのを覚えています。
 奥の院の下 銅山川には馬の渡れる橋がないので、他の人は馬に乗って渡りましたが、父は馬が可哀想だからと、馬と一緒に歩いて川を渡ったそうです。
 幼い私は「濡れたズボン、どないしたん?」と尋ねると「歩いているうちに乾いたよ。」と 言いながら 話を続け、時には川水が増して、馬の腹まで 水につかる事もあったことや、馬の腹に鈴を付けて、チリン チリンと音を響かせながら、くる日も くる日も歩き続けて荷物を連んだことを 話してくれました。
 今思うと、17〜8才の年若い父が、馬をかばいながら、共に苦労して働く姿が目に浮かび、目頭が熱くなります。
 父は3年間、馬追いをして働きましたが、その後、大正元年に徴兵検査を受け、甲種合格で台湾歩兵第22連隊へ入隊しました。その時母親は、この世の別れとばかり 泣いて悲しんだそうです。
 愛媛県では、周桑郡から もう1人が行ったと間きました。門司まで羽織袴で行き、現地で軍服に着替え着物は送り返して来たそうです。
 台湾へは1月余り掛かったそうですが、船室は座っても 天井がつかえる程低くて 狭い船底で、這う様にして過ごしたそうです。
 給料は30銭で ハガキは1銭5厘、「親戚へのお礼のハガキを出したら、殆ど残らなかった。」と言っていました。
 大正3年、生蕃匪賊討伐(昭和の初めには匪賊とは言わず高砂族)に参加し、台湾横断の時は、すさまじい暑さの中、水筒の水を少しは残す事になっていましたが、全部飲んでしまって、死にそうになっている戦友に、飲ませてやったりしました。
 土砂降りの雨の中、全身びしょ濡れで野宿しながらの行軍は、3ヵ月掛かりました。父は、この時の武功に依り 勲ハ等賜瑞宝章を賜わったそうです。
 その話を 父の膝の土で聞いていた私は、あまり真剣に話すので、何となく 不思議な気持ちになって「それで お父さん、死んだん?」と聞いたものでした。
 父は話に身が入り過ぎたと思ったのか、黙ってしまいました。側から母が「馬鹿よ、お父っあん 生きとるじゃないか。」と私の幼さを、両親が笑い合ったものでした。
 父は 初年兵の世話をよくしたので「おっ母あ!」と言うあだ名が付いたそうです。
 休みの日には、他の人は街へ遊びに行きましたが、甘い物が好きな父は、砂糖会社へ行き 腹一杯砂糖を食べて、ハンカチにも包んで帰るのが、唯一の楽しみだったそうです。
 その会社では、台湾入が裸・素足でスコップを持ち、砂糖を山の様に跳ね上げて働いていました。汗がボタポタ落ちて、足元には砂糖の固まりが出来ていました。
 2年の兵役の後、台湾から帰国。討伐の時に貰った青蛮刀は、監視の目を誤魔化すのに大変苦労したが、持ち帰って来ました。87年経った今も、大切にしまってあります。
 父は、大正6年の秋、鎌倉ヨシと結婚して、一男四女を儲けました。
 (三女・美代子)父は農事に励んで、実直に過ごして86才で この世を去りました。
 今里うと 幼い日、父が囲炉裏端で、よく話してくれた、馬追いの日々や、若い日の兵役の事が、生涯の大きな出来事だったのかも知れません。
 この様な 父の思い出の中に、私は 父の温もりや、優しさを感じて止みません。
 山の中で苦労をしながら 一生を終えた父は、私の誇りでもあります。



註〔生蕃〕とは、 台湾東南部の「生蕃」で、清国は、反対する台湾原住民をこう呼んだ。






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     父の思い出


    平成13年8月 記           石川美代子


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