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2.東平・Ⅰ 33°52'36.14"N133°18'50.89"E
東平は、標高750m前後に位置し、大正5年(1916)から昭和5(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた地域で、最盛期には4,000人に近い人々が暮らしていた
「鉱山の町」でした。 明治35年(1902)に東平・東延斜坑底を結ぶ「第三通洞」、明治44年(1911)に東延斜坑底・日浦を結ぶ「日浦通洞」が貫通し、この路線を走る
電車により新居浜地域(東平)と別子山地区(日浦)が結ばれるなど、東平は、別子銅山に係わる交通輸送の重要な拠点でもありました。
昭和43年(1968)の東平坑終掘に伴い、東平は、一時廃墟と化し無人の地となりましたが、昭和63年(1988)の「銅山の里自然の家」や
平成6年(1994)の「東平記念館の建設により、今、再び注目されるようになってきました。
貯鉱庫と索道基地跡 33°52'38.83"N133°18'52.32"E
明治38年、東平の索道基地が完成しました。鉱石、生活用品・資機材等を東平・下部鉄道黒石駅(昭和10年からは端で場)まで運んでいました。
新道と6号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継ぎがされていた。新道の中継所跡のレンガ造りの建物は今も残っている。
その後、昭和10年(1935)には距離を短縮して東平〜端出場間の索道には、26基の支柱が建ち80器ほどの搬器が吊るされて分速150mで回転していた。
同年に太平坑〜東平間(1.312m)の索道が完成し、領北に搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。
当時の内部
貯鉱庫跡
この巨大な石積は、貯鉱庫のあったところです。 坑内から運び出された鉱石は、索道基地から
下部鉄道黒石駅(昭和10年かhらは端出場)に運搬されるまでの間、ここに貯められていました
インクライン跡 33°52'40.00"N133°18'50.26"E
大正5年(1916)頃、東平・端出場 索道の接続基地として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に、斜長95m、仰角21度でインクラインが設置された。
動力は電気巻上げであった。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、必要な物資や生活用品などが引き上げられ、
抗木などが引き下ろされていた。インクライン跡の傾斜を利用して、平成6年のマイントピア別子・東平ゾーンの整備時に220段の長大階段が作られた。
インクラインは、明治37年(1904)に完成した4阪島精錬所や、大正14年(1925)に完成した新居浜選鉱場でも上部への鉱石等の運搬手段として設置されている。
東平歴史資料館の横にある坑道を利用して鉱山運搬機器展示場になっている
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