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アメリカ西海岸訪問記


 今年(2014年)3月、諸般の事情から卒業が延期になった私は、高校時代からの友人Y( 日光東照宮の旅行記 を参照のこと)が医大の卒業時期を迎えたのに合わせて、長期の旅行をしようと思い立った。
 国試後にYに連絡を取ると、どうせ行くなら海外にしようとの話になった。
 そこで、かねてから興味のあったアメリカ本土への旅行が計画された。Yが最初に申し込んだK社ではK社担当の勘違いによりツアーが申し込めず、台湾への変更も考えられたが、HISで航空券とホテルの組み合わせにより旅行が可能となった。なおHISには旅行出発の6日前に足を運んだので、かなりタイトなスケジュールの中で申し込みから手配を行うことになった。これは今後の教訓にしたいものである。
 行き先は出来れば2都市回ろう、ということになり、ロサンゼルスとサンフランシスコに決めた。サンフランシスコには高校時代の友人Sが留学しているので、連絡を取ると、ありがたいことに現地を案内してくれるという。このおかげでサンフランシスコの滞在はとても充実した物になったのだった。

3月4日(火)
 伊丹空港を12時に出るANA24便を目指して、私はリムジンバスの中にいた。伊丹空港自体は恋人の出迎えや友人との待ち合わせで何度も訪れていたが、飛行機に乗るために向かうのはこれが初めてである。
 飛行機自体、最後に乗ったのが高校2年の修学旅行(福岡発中部空港行き)だったので、およそ9年ぶりの航空機に少し緊張気味であった。
 空港ではカウンターでチェックインを済ませた後、米ドル札を2万円分ほど仕入れ、昼食代わりにたこ焼きをつついてから保安検査へ向かった。
 およそ9年で、航空業界は劇的な進化を遂げたようで、航空券も2次元バーコードをかざすペラペラの紙になっていた。航空便に詳しい後輩曰く、自宅でプリントアウトすればカウンターによらずそのまま保安検査を経て搭乗口に向かうことが可能だそうである。保安検査を難なく終え、閑散とした搭乗エリアで少し待つと、ビジネスクラスの客の後で、航空機へと案内される。クラスが上になればなるほど乗るのが早く降りるのも早い。
 充当された機体はB777-200であった。新幹線よりしょぼい座席の通路側に座る。1つおいて窓際にはスーツ姿の中年男性がいた。
 いよいよ離陸となり、9年ぶりの離陸に身構える。しかし飛行機はあっけなく飛び立ち、ほどなく乗務員のドリンクサービスが始まった。機内誌「空の王国」を読み、適当にオーディオをいじっていると着陸態勢に入り、羽田に着いた。
 アメリカへは成田発LAX行きの便を使う予定である。ではなぜ羽田なのかと言うと、適当な時間の伊丹発成田行きが空いてなかったからである。重たいスーツケースを引っ張りながら、成田行きリムジンバス乗り場へ向かう。本音を言えば京急&京成のエアポート特快で行きたかったのだが、人身事故の案内を見て諦めたのだった。
 成田へは2時間かかる。バス内では無料のWifiサービスがあったので、ipad2をひらいてニコニコ動画を観賞しながら成田に向かう。動画を見るには十分な速度が確保されていたのには驚いた。
 特に遅れることなくバスは成田空港に着いた。成田空港に入る直前、民間の警備員が配置されたゲートで手荷物検査を受ける。三里塚闘争の余波だろう。
余波と言っても三里塚闘争自体はもう20年以上前のことなのだが…

 空港に着き、ユナイテッド航空のカウンターへ。搭乗の2時間前までにチェックインをしなければならないので、少し心配していたが余裕を持って着くことが出来た。カウンターでは重たいスーツケースを預け、座席を選ぶ。「グレードを87ドルであげられるよ。カード使えるよ」との誘い文言を無視してエコノミー、窓際で唯一隣が空席だった場所を選択する。HISで申し込んだとき、友人と隣同士になれるとの触れ込みだったが、実際はこのように席を直前まで選べず、「話が違うぞ!」という心境だった。もっとも往復とも二席空いている場所を確保できたので結果的には大丈夫だったのだが。

座席を確保し、荷物も軽くなったのでショッピングフロアを回る。TSUTAYAで行きに読もうと本を数冊買い込み、UFJで¥をTCに代え、おなかがすいたので出汁茶漬けを食べているとYから到着したとのメールが来た。

再び保安検査を受け、出国手続きの後、ようやくYと合流する。Yは中部空港からの乗り継ぎ便で来たのだが、成田へ直接来る乗り継ぎ便にのるとそのまま国際線の搭乗ロビーに通されるのだった。

広い成田空港の出発ロビーを歩き、ユナイテッドの搭乗口へ。途中子猫がいたが、航空機に持ち込めるとは知らなかった。自販機でお茶を買う。保安検査で一度飲料は没収されるので、皆ここで買うほかないというのはなかなか大名商売だ。

クルーの大半がアメリカ人、乗客も半数以上が非アジア人なので、いよいよ国際線に乗るのだという気分が高まってくる。
座席は機の後方であった。B787で、座席ごとに液晶パネルが備えられ、自分の好きな映画を選んで観ることができる新型の機体だった。これはいい、これなら本を買う必要はなかったな…と思ったが、帰りはそれぞれに液晶パネルの備わっていないB747だった。

18時15分、離陸。米本土には9時間後の現地時間11時に着くことになっている。
離陸して30分ほどするとベルト着用サインが消え、ドリンクサービスが始まる。米国人のガタイのいいおっさんがにこやかにドリンクを聞いてくる。既に英語の洗礼が始まっていた。。
apple juce と答え安心していると、今度は食事に。fishを選択したら白身魚の焼いたものとカレー?らしき何かがかかったライスの食事が来た。味の濃さだけで食べられるいわゆる「機内食」だった。以前乗ったエミレーツではハイジャックの心配など微塵もしていないらしく金属のナイフとフォークが出てきたが、さすがにユナイテッドはプラ製の食器だった。

食事を終え、映画を見る。新旧取り揃えていたが「今そこにある危機」を観る。昔冒頭だけみてその後見ていなかった作品をようやくここできちんと見ることが出来た。
ロクに観ていなかったのに以前大学のゼミで「麻薬戦争をリアルに描いた映画」と紹介した事があるのは内緒。

 
映画を観終え、手洗いを済ませてから寝る。後ろの客の態度が悪く、私の座席の頭に足を乗せているようだったので、座席を倒しきれなくて寝るのには苦労した。しかし数時間は寝られたようで、目覚めるともうあと3時間と言った場所に来ていた。

 朝食が配られる。「pasta or $%&#」と聞いてくるが、パスタでない方が何を言っているのかさっぱり分からない。no pasta! とかなんとか言ってると、パスタでない方が出てきた。それはオムレツであった。パスタより美味しい感じだったので満足する。

 そして機体はいよいよLAXまで30分のところに来た。空港の南側からアプローチするようで、窓から外を見ると映像でしか観た事のなかったカリフォルニア州の住宅街が見え、感激した。

3月5日(水)

現地時間11時、LAXに到着する。空港はあまり新しくないのか薄汚れたようなところがあった。LAらしいといえばいいのか。身障者用の車いす(ごつい)が多数待機していた。身障者は優先的に入国手続きを受けられるようである。と思ったら、我々の座席の前に座っていた明らかに健常者な老婦人(日本人)が車いすに乗って目の前を通過していく。降りた直後職員に「wheelchairはどこか」と聞いていたので、嫌な予感はしたのだが…。いやはや、したたかなご婦人であった。

us citizen でないvisiter な我々は、長い入国の列に並ぶ。入国審査官の中には日本人にしか見えないアジア系などもいて、西海岸らしさを感じさせる。腰にsigらしき銃を装備しているのは日本と違うところである。そんなアジア系の職員、交代時間になったようで去っていく。窓口が一つ減り進みが遅くなった…
 それでもてきぱきしているようで、30分ぐらいすると我々の番になった。結構緊張していたのだが「コンニチハ」などと日本語で語りかけてくる上に優しい。指紋を登録し、buisiness or vacation ? の問にvacation と答え、滞在期間と場所を述べると入国できた。

重たいスーツケースを受け取り、コンコースのようなところに出る。ホテルまでの送迎が手配されているはずだ…と探すと私の名前を持った白人のお兄さんがいた。

お兄さんに連れられて空港の外に出て駐車場へ。我々二人の重たいスーツケースを苦も無くシボレーに乗せる。さすが。

そしてLAXを出て、車はフリーウェイをダウンタウンへ。LAX近くにはボーイングなどの他、日系のゲームメーカーのビルなどもあった。ホテルまでの道のりでは、いままで小説や映画でしか見た事のないアメリカ西海岸の光景が窓のすぐそこにあるということに、夢のような心地であった。運転手は寡黙なのか我々が話さないからなのか、ずっと物静かに運転していた。空港からは30分ほどでダウンタウンにあるホテル(リッツミルナー)に着いた。
ホテルの前にはLASDのパトカーが止まっていた。生で見られて感動する。

ホテルに入り、フロントに向かう。日本人スタッフとか言う気の効いたものはなく、ラテン系のお嬢さんと人の良さそうな中年親爺が出迎え。さっそくここで英語の壁に苦しむことになった。
まずカードを要求される。支払いはHIS経由で済ませてあるはずで、旅行ガイドに「迂闊にカードを出すな」と書いてあったので、戸惑う。Yも英語が出来ないので、2人して右往左往していると、どうやらデポジットを払わなければならないようで、現金でもよいかと聞き、20ドル紙幣を渡してことなきを得た。親爺が地図を出してきて、リトル東京近辺を囲み、大きくバツを付ける。「Dangerous?」と聞くと「Yes!」という。このエリアは本当に治安が悪いので行ってはいけないとのこと。後にSがここ(コンプトンというらしい)に行った話を聞かせてくれたが、リアルGTAという感じがした。

長方形の古さを感じるエレベーターで3階に上がり、部屋に入る。荷物を置き、軽装備になる。1日目は美術館に行きたいという私の要望により、LACMA(ロサンゼルス郡立美術館)に行く予定だった。

フロントに降り、LACMAに行きたいと言うと、バスの番号を教えてくれる。LACMAのパンフレットももらえたが、正直目当てのバスに乗れる自信はこの時全くなかった。

バス停のある7thストリート・メトロセンター駅まで歩く。物乞いが1人いるほかは西新宿や心斎橋辺りと変わらないビル街である。空気が乾燥してはいるが。

駅でtapカードというICカードを買う。地下鉄に乗ってみたかったが、乗り継ぎが必要なようなので諦めた。駅構内は薄暗く、危ない感じがする。ありがたいことに、Sから事前に「LAはSFとちがって完全な車社会。公共交通機関には車を持たない低所得者が多く乗るから気を付けて。タクシーが安いから使うといいよ。」と、タクシー会社の番号が添付されたメールを貰っていたので、周囲に気を配りながらバス乗り場へ。オレンジと白の大きなバスで、「ウィルシャー方面行き」を探す。ウィルシャーはマイクル・コナリーの小説にも出てくる地名というか通りの名で、メインストリートの一つらしく、バスはすぐにやってきた。
プラスチックの固い座席に2人で座る。英文で次に止まる停留所が表示され、聞き取りにくいが自動放送も流れていたので、LACMAの最寄りである「ウィルシャー/スポルディング」のバス停が読み上げられるのを耳を凝らして待つ。もっとも地図で一応の場所は分かっていたし、地下鉄の終着駅ウィルシャー・ウェスタンを過ぎてから注意すればいいのだが、そのウィルシャー・ウェスタンも分かりにくいのだった。ウィルシャー通りをずっと進むのでウィルシャーが続くせいだが。

バスはコリアンタウンを抜け、地下鉄駅で多くの乗降客を出しながら、順調に進み、40分ほどで目的地に着いた。ここでようやく緊張がほぐれる。カメラを取り出して記念撮影。


↑このバスに乗ってきました              ↑LACMAの看板

看板前で交互に記念撮影していると、通りすがりの白人のお姉さんが「撮ってあげましょうか?」と優しく声をかけて下さる。
カメラを渡す際に、厚着しているYのジャンパーを引っ張って「暑いから脱ぎなさいよ」と言われた。確かに我々、私は赤いセーターでYは黒い日本の冬用のジャンパーであった。西海岸の昼間では見た目にも暑い。

こうして採ることが出来た写真

礼を言うと、ようこそLAへと返される。この出来事で、アメリカ初体験での好感度は急上昇である。

気分よく中に入り、ガラス張りの洒落た受付でチケットを買う。受付の奥にオープンカフェレストランがあったので、昼食がまだだったことからひとまず食事を採る。


↑タコと青菜の炒め?                   ↑チーズの載ってないピザ、Roman

メニューの英語を単語レベルで解読しながら、予想の付く物を注文していく。イタリアンだったの謎のメニューというものが少なく、助かった。味もなかなかおいしかった。20ドル超えたので、昼食にしては高いか。なおメニューは こちら

食事を終え、受付脇のドアからいよいよ館内へ。
現代芸術を中心に収集しているだけあって、存命の若手の作品から、モンドリアンやロスコといった著名な20世紀美術の作品まで幅広く展示されていた。順路が分からず、うろうろする感じになったうえ、2時間ほどしかなかったのですべてを見ることは出来なかったが。
ミュージアムショップで土産物をいくつか買い込む。早速手持ちのドルが減っていくのでカードを使った。


↑別館のようなところで展示されていた大型の作品


↑LAのような大都市をイメージしたのだろうか。    ↑鉄道模型が使われていてうれしい
Chris Burden(クリス・バーデン)のMetoropolisⅡという作品のようだった。時間によってはこれが全部動くという…

閉館時間の5時を迎えたので外に出る。

↑美術館の裏手はこんな感じ              ↑この屋根の下に受付や待合のロビーがある。右手の見切れてるのがレストラン

帰りのバスを向かいのとおりで待つ。「地下鉄を頑張って建設しています(意訳)」という看板があったので、もう少し早く延伸していれば乗れたなぁ…と思う。


↑観光客向けに走る2階建てバス。これはイギリスからの輸入車で、ゆえに日本と同じ左ハンドルだそう。


↑地下鉄工事現場

10分ほど待つと、来た時と同じ柄のバスがやってきた。乗りこみ、また硬いプラスチックの椅子に座る。
帰りは二人とも疲れていたのか、コリアンタウンに入ったあたりから2人とも寝てしまった。行きに乗った屋根つきのターミナルを見落とさないように気を付けていたが、どうもそれを見落としたらしく、気づくと見慣れない街である。変なところまで連れていかれてはたまらない、と慌てて降りると、降りたところはホテルの親爺のいう「dangerious」なところに近いらしく、商店の面構えが鉄格子付きだった。少々焦りながらも、バスの来た道を戻ればホテルに帰れるだろう、と小走りに急ぐ。すると前のお姉さんをビビらせたらしく、彼女も走り始めた。アメリカでは危険を感じると、とにかく走って逃げる風習が身に付いているようだ。幸いにも数ブロック戻ると、ホテルに近い7thストリート駅周辺だった。
安心して歩みを落とし、スーパーに寄って水や新聞(私の趣味。LAにきてまでも…)、家族への絵葉書を買う。レジのおばさんはあいさつしてきてとてもフレンドリーである。それから夕食にサブウェイをテイクアウトする。サブウェイ、トッピングを自分で決めねばならず、英語初心者にはハードルが高い…というのを帰国してから知ったのだが、確かに1つ買うのにだいぶ難儀した。またもnoピクルスなど謎英語が飛び出す。

くたくたになりながらも、謎の充実感と共にアメリカ初日は終わった。

つづく

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