このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
栄光の国鉄急行列車 |
2010年5月23日新設
鷲羽〔WASHU〕 EC急行
関西と 宇高連絡船 の乗継駅、宇野を結んでいた電車急行。国鉄時代、本州四国連絡橋は完成前であり、山陽新幹線の岡山開業以前は、急行鷲羽が、本州と四国を結ぶ主力列車でした。そして宇野〜高松の航路は、 宇高連絡船 が受け持っていました。運転区間は、大阪、新大阪、京都〜宇野間で、山陽本線、岡山駅から宇野線に入り、宇野駅に至っていました。
本州と四国を結ぶ列車の歴史は古く、1950年10月1日には、大阪〜宇野間の準急が設定され、1959年9月22日には、平仮名でわしうと命名されました。1960年10月1日には、山陽本線上郡〜倉敷間と宇野線が、電化され、153系電車準急となり、この際に表記も鷲羽になりました。名前は、岡山県、児島半島南端にある景勝地、鷲羽山(わしゅうざん)に由来していました。この鷲羽山(わしゅうざん)の近傍は、本州四国連絡橋の本州側の起点になっています。又、宇野線、茶屋町が起点の 下津井電鉄 も鷲羽山(わしゅうざん)の近くを走っていました。
写真は、大阪駅11番ホームに到着した準急鷲羽です。1966年頃、TAKEMASU様が撮影された貴重な写真です。車両は直流電車153系です。この頃は、153系による堂々の12両編成でした。隣のホームには、焦げ茶色単色のEF58の姿も見られます。
急行<とも>153系 大阪駅にて 1968年頃 TAKEMASU様撮影
準急鷲羽は、1966年3月5日に、急行に格上げされ、急行鷲羽となりました。1968年頃には、最盛期を向かえ、153系により11往復が、運転されていました。この区間には特急 うずしお 等も運転されていましたが、輸送量から他を圧倒し、『四国へ行くには鷲羽で』という事が定着していました。
下の写真は、新大阪駅で、出発を待つ急行鷲羽です。1968年頃、こーちゃん様が撮影された貴重な写真を掲載しています。車両は153系で、ホームで待つ、和服や背広姿の人々が、時代を感じさせます。
急行<鷲羽>153系 新大阪駅 1968年頃 こーちゃん様撮影
鷲羽は、1972年3月15日の新幹線、岡山開業にて、昼行急行が全廃され、夜行急行の1往復のみになりました。
1972年3月15日以降、早朝、深夜のみの運転だったため、走行するシーンは、見られなくなりました。写真は、宮原区で撮影した鷲羽編成です。1975年5月5日撮影、宮原区の所属だったため、上り鷲羽は、5:26に大阪駅に到着後、宮原区に回送されていた様です。
急行<鷲羽>153系 宮原にて 1975年5月5日頃撮影
その後、四国への接続は、岡山まで新幹線、岡山〜宇野間は接続快速という方法が定番になったことから、時間帯の悪い夜行の鷲羽は乗客が減少し、1980年9月30日に廃止になりました。
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